職員室に血相を変えて飛び込んできた3バカトリオを最初に確認したのは赤木リツコ2−A副担任であった。
「どうしたの?」
 猫の柄のカップを片手に、彼らを見上げていた。机の上には今食べ終わったばかりとおぼしき弁当箱がおいてある。
「テ、テロです!」
 ケンスケが場所と時間と目的を省略したのを聞いて、副担任は困った顔をした。
「テロ? この学校で?」
「あ、いえ、テレビ局で。市街の。いま、生放送中で。人が死んで、えーと、」
 シンジがしどろもどろに捲し立てたが、文脈不整合で聞き取りにくい。だが、彼女はそれで全てを理解したらしく、
「マヤ、テレビをつけてみて」
 と、向かいの席の伊吹マヤに命じた。彼女はリツコの大学の後輩だった。彼女の在学中、卒業したばかりのリツコの名前は既に学内で轟いて伝説になろうとしていた頃で、憧れの対象になっていたのだ。だから、中学校の教師という形で会えたときは少し驚いたマヤだった。まさかこんなところに赤木さんが、と思った。その時から、彼女はリツコを先輩と呼んでいる。
「は、はい」
 弾かれたようにマヤは立ち上がり、職員室の隅に置いてあるテレビのリモコンのスイッチを入れる。ケンスケの手にしたカメラの液晶と同じ画面がテレビにも映し出され、次の放送は13時13分からであると白文字で示されていた。それだけでは真偽が確認できなかったが、ただ事ではないと判ったらしく、もう一度シンジ達に最初から説明を促した。
 3人が交互に補完しながら、テレビの中で行われた惨劇を説明し終わった頃には、彼女はその美しい顔を困惑したように歪めた。形のいい顎に長い指を当てて数秒考え込み、険しい表情でシンジに向き直った。
「君たちは教室に戻っていなさい。私の一存じゃ決められないけど、多分すぐに下校になるか何かで決定が下りると思うわ。いい、このことは生徒に言ってはダメよ。下手するとパニックになるから」
 3人とも素直に頷いた。シンジは食べた直後にあんなものを見てしまい、戻さなかっただけでも敢闘ものであるが、顔色の悪さは隠しようもなかった。トウジもケンスケも、あまり差はない。
 職員室に葛城ミサトが不機嫌な顔をして入れ替わりで戻ってきた。
「リツコ、ちょっと聞いてよ」
「それどころじゃないわ」
 無下に切り替えされて、ミサトはますます不機嫌な顔になる。
「なによ、そんなに大ニュースなの?」
「アレを見なさい」
 しなやかにテレビを指さすリツコ。
「あのへんてこな放送が何?」
 そう言ったが、ミサトも13時13分になり画面がスタジオに切り替わった途端、違う種類の険しい顔になった。そして、数秒後1人納得したように呟いた。
「そういうわけね」
 テレビには銃を構えたクラーク少佐と1人の妙齢の女性が映し出されている。赤みがかったショートカットのその女性をリツコは食い入るように見つめていた。
「母さん…」
 そう呟いた自分に、リツコは気が付かなかった。
























EPISODE:5 Air
























「我々は『シリウス』。どう取っていただいても結構だが、とりあえず凶暴無慈悲なテロリストと名乗っておこう」
 クラーク少佐は流暢な日本語を使った。
 彼らが10分間の猶予を与えた目的は至極簡単な理由からである。その答えは1回目の放送より受信しているテレビが圧倒的に多い、という事実であろう。この放送が始まる前に、全世界の国営放送のテレビ局や各国の最大手のメディアのコンピューターが次々とハッキングされ、チャンネルを強制的にこの番組へ合わされてしまったのである。翻訳のように気の利いたものはもちろんないが、それでも全世界の20%以上の人々がこの放送を注視することになった。
「まず、『シリウス』の実力はこの放送を受信しているテレビの台数、国などの数から理解していただけたと思う」
 テレビでクラーク少佐が余裕すら感じさせてそう喋っていた頃、それぞれのコンピューターとかなりの人員が格闘していたが、全て完璧にロックされてしまい、物理的に破壊して停止させない限り、チャンネルを通過していく映像と音声を止めることは不可能であった。
「そして、肝心の要求だが1000万ドルを新三菱信用金庫に支払っていただこう。この要求が今更ながら確認する必要はないと思うが、本気であると証明するために某支店5秒後にを爆破する」
 クラーク少佐が口を閉じて4秒強。
 ドーン……。
 腹に響く音がスタジオ内にに響いた。
「たった今、この街の支店を爆破した。中継は出していないが、別チャンネルの放送局が放送してくれるだろう。その意志のあるテレビ局の担当者は我々にコンタクトを取ってくるはずである。放送の許可は我々が出す。最初に中継の繋がった局にのみ放映権を与えるので精々急ぎたまえ」
 さもないと、永遠に放送を再開することができないと発破をかけられて、他のテレビ局の人間はいっせいに都心を目指して中継車を走らせ始めた。E2スタジオでは一台のモニターが数台の中継車を追跡した結果が示されていた。各局とも、チャンネルを握られているので必死だったし、マスコミのサガか、現場に向かって一斉に競争を始めたのである。
「また、銀行の頭取と取締役会には1時間の猶予を与える。それまでに『イエス』『ノー』の回答を得られない場合は別の支店を爆破し、回答が得られるまでここにいる人質を5分おきに1人づつ殺す。現在この局の中にある生体反応は、『シリウス』のメンバーを除くと1856名。計算上、156時間程余裕があるが、我々の気がそんなに長くないことを付け加えておこう。最初の候補者は、世界的に有名なコンピューターの権威、赤木博士である」
 カメラが隣に映っていた女性をクローズアップし、すぐに画面が切り替わった。
 音声のみで「次の放送開始は55分後である」と述べて、すぐに黒画面に時計が残りの時間を刻み始めた。
 スタジオでは音声も切られたあと、憮然とした顔の赤木博士に声をかけた人物がいる。
「1時間で回答が得られますかな?」
「無理ね」
 死刑宣告されているにもかかわらず、彼女は強気だった。
「どうしてそう思われるのですか?」
 重ねて尋ねたのは司令と呼ばれた男である。サングラスをクイッと指で押し上げた。
「ここがアメリカでもドイツでもイギリスでもない、日本だから、よ」
 やや自虐的に、ナオコは自国を評した。国柄、リーダーシップをとる人間がいない、10時間待ったところで得られもしない結論のために延々と不毛な議論を繰り返す取締役会が開かれ、会見を開いたところで煮え切らない態度と発言を繰り返すだけ。ナオコはそう言った。さらに付け加えて「あそこの銀行は官僚体質だからなおさらね」とまで言ってのけた。
「なるほど」
「で、私を誘拐した目的は?」
「人質ですよ」
 さも心外である、と言いたいのか、驚いた顔をする司令。
「それでもいいわ。いろいろ突っ込んで聞くのも面倒だからそうしておきましょう。それで私に聞きたいことがあって、わざわざこんな真似を起こしたんでしょう? それは何?」
「博士こそ判っていらっしゃるくせに人が悪いですよ」
「残念ながら、保身のために機密を漏らすことはできないわ」
「それで結構です。人間、誰しも自分を脅されたところで強がっていられますから」
 その言葉に不穏な空気を感じたのか、ナオコはサングラスの奥に隠された瞳を見つめようと彼の顔に自分の視線を泳がせた。しかし、口の笑みこそ確認できるものの、目元は完璧に隠されていた。
「どういう意味?」
「すぐにわかりますよ。それより、待ちましょう。得られるはずのない回答をね」










 10時15分。
 太陽が容赦なく強烈なエネルギーを地表に降り注ぎ、人々はウンザリしながらも一日の行動を開始していた。正午には何処まで気温が上がるか、想像するだけでもイヤそうであった。こんな日はヒートアイランド現象の起こるこんな都会ではなく、どこかのどかな田舎のような場所で、木立の陰の下、涼風を浴びながら読書でもしたい気分だろう。
 だが、暑さで流れる汗をハンカチで拭う人々を後目に、無精髭を生やした男が第一中学校へ向かって飄々と歩いていた。額に汗は滲ませているものの、周りの人間のように恨めしそうな顔で太陽を見上げたりはしなかった。
 肩に羽織っていたジャケットを担ぎ、もう片方の手でスーツケースを持っている。時折腕時計で時間を確認しながら、遅れているとわかると心持ち歩みを早めた。










「校長先生、ご来客の方がお見えになりました」
 冬月はこの日、2日ぶりに校長室で執務を行っていた。彼は校長としての業務を怠ったことは一度たりとしてなく、ゲヒルンの特別顧問の仕事は無償で行っているうえに、校長としての仕事を早く切り上げてから研究所に出向いている。それなのに、最近は教育委員会やPTAからの無言の圧力がのしかかって来ているのが負担になりつつあった。公務員は副業を禁止されているが、冬月のケースはあくまでアドバイザーでありボランティア活動のため、公式には何も言われる事はない。しかし、事実は往々にしてうまくいかないものである。
「ああ、お通ししてくれ」
 程なくして現れた客人とは、先ほどの無精髭の男だった。
「忙しいところ、悪かったね」
「こちらこそこの手の仕事は大歓迎ですよ。ジャーナリストとしての本道にやっと戻れた気がしますから」
 その男は30前後の容姿であったが、雰囲気が老成した人格を醸し出していた。出で立ち、振る舞い、全てが男臭いのだが、どこかに愛嬌が感じられる。
「お仕事の途中じゃありませんでしたか?」
「いや、気にしなくていいよ。どうせ上からの抗議文なんだからな」
 パタパタと手を振って、面倒臭そうに冬月は云った。ここでいう『上』とは市の教育委員会である。難解な日本語で書かれているが、転入してくる生徒数の受け入れ状況が悪いと書かれてあるんだよ、と要約して目の前にいた男に説明した。
「なるほど。頭痛の新しい種子ですな」
 その男は笑い、冬月も苦笑した。
「それでは、私は先に学校を一回りさせていただきます。しかし、今時のご時世、『現在の教育現場の実状』なんて記事を載せるようなスペースがありますかね?」
「何を弱気なことを言ってるんだ。載せるのが君の仕事だろう、新聞社特派員」
「足りませんよ、戦争専門って言葉が」
 自らの立場をやや自虐的に言ってのけた。そして、クッションのいいソファーから解放された捕虜のような顔つきで立ち上がった。慣れない感触で居心地の悪さを感じていた加持だった。
「ああ、1つ言い忘れてたよ」
 校長室から出ていこうとするジャーナリストの背中に冬月が声をかけた。
「昼頃には戻ってきてくれたまえ。まだ頼みたいことがあるのでね、一緒に昼食でも取りながらその件については話そう」
「まさかここに来てアルバイトさせるつもりですか?」
 男は眉をひそめるが、冬月は平然と人の悪い笑みを浮かべて言葉を継いだ。
「ああ、そのまさかだよ、加持君」










 この日の午前中、生徒の数%と教職員の幾人かが、学校の中を歩き回る見たこともない男がいるのを目撃している。早速連絡を受けた教頭がその男、加持と呼ばれた男を体育館の前で捕まえて追い出そうとしたところ、早口で「何をしているんだ、部外者は立入禁止だ、出ていかないと警察に連絡しなくてはならなくなるのは此方としても避けたいのだ」と捲し立てる教頭ににこやかな笑みで名刺を差し出すと共にこう述べた。
「これは失礼しました。私は新聞記者の加持リョウジともうします。まあ、今はフリーですが」
 頭から湯気が吹き出しそうな勢いの教頭は顔が真っ赤でまるでゆでだこのようだった、笑いをこらえるのに苦労した、と加持は後に語ったが、このときはおくびも出さず、ただ緊張感のない声で、
「今日は校長の依頼で、この学校を抜き打ちで取材させていただくことになっていたんですよ。現在の教育現場と、教育者の関係について。普段学校を仕切っていらっしゃるのは教頭先生であると伺ってましたが、ところであなたは教頭先生がどなたかご存じじゃありませんか? 是非ともいろいろとお話を伺いたいのですが」
 加持にしてみれば、既に教頭の外見がバーコード頭の50代の男性だと聞いていたので、目の前にいるバーコード頭の中年男性が最初から教頭であろうと目星はつけていて、それでもからかっているのだ。
 一方、教頭の側からすればたまったものではなかった。彼はちゃんと野心を持っていたし、算段もあった。現在の校長が何故あそこまで学校をたびたび留守にしながら、未だに校長室の主であり続けるのか不思議ではあったが、それを蹴落とす足がかりと協力者を着々と固めていた最中なのだ。それがもし新聞で不名誉なことでも書かれようものなら、彼の輝かしい未来への道は鋼鉄ガラスから薄氷に変化してしまうだろう。しかしながら、たった今この男に出ていけと怒鳴ってしまったのは事実であるし、痛恨の出来事であった。
 校長への道に塞がる門をこじ開けようとしていた彼の目の前で、再び門が閉じかけたが、加持は引きつった笑みを浮かべる教頭に一礼して、
「じゃあ教頭先生にお伝えしておいてください。私が探してました、と。まだ全部を見回ってないので、これで失礼します」
 にやり、と不適な笑みを彫刻となったままの教頭に投げつけ、その横を通り過ぎる加持。
 この後、加持は教頭先生と呼ばれる人物に会うことがなかった。教頭の方が、体調不良と言うことでそそくさと早退してしまったのである。
「まちなさい!」
 チッと加持は舌打ちした。校舎に戻ろうとした途端に後から呼び止められたからだ。
「はいはい、オレが悪うございました」
 そう自分にだけ聞こえるように言い、すっかり皮肉な気分になって、冷笑をひらめかせながら振り返る。そこで初めて「おや?」という顔をした。相手も同じらしかった。口に手を当て、驚きを押し隠そうとして失敗している顔で立っていた。
「……葛城?」
 加持の声に、返答はなかった。










 ミサトは不味そうに不味いコーヒーをすすりながら老教師の気のない声を聞いていた。コーヒーが不味いのは自分がそれを入れたからで、隣に座る赤木リツコには何度もコーヒーのおいしい入れ方のご教授を頂いているにもかかわらず、この数年、まったく進歩らしきものが見られなかった。
 コーヒーのおいしい入れ方を体現しているリツコはおいしそうにコーヒーを飲みながら、手元のキーを叩いていた。
「ちょっと、会議中よ」
「わかってるわ。でも時間がないの」
 ミサト達の方を説明していた教師がギロリと睨み付け、咳払いをわざとらしくする。ミサトは頭をかきながら申し訳なさそうな表情で力無く笑うと、すぐにリツコに頭の中で書き上げた抗議文を読み始めた。
「ほら、怒られちゃったじゃない」
「……そうね」
 リツコは上の空である。程なくして呟いた。
「終わった…」
「何が?」
「別に、野暮用よ。で、どうするって?」
「順次保護者に迎えに来てもらった生徒から帰宅させるんですって」
 教頭がいないので、渋々と言った体で冬月は苦手な職員会議に引っぱり出されていた。彼は人付き合いがあまり得意でないため、そちら方面は教頭に任せきりだったのだが、いなくなってしまったのだから仕方がないだろう。そもそも、間接的な原因は、加持を呼んでしまった彼にある。冬月が渋面で決定を下し、書面で伝えたのだが、長々と結婚式のスピーチのようにその老教師が内容を一字一句喋っていたので時間が伸びて、結果ミサトは大あくびを噛み殺していたところなのである。
「今のところこの学校は安全だけど、途中の道はわからないから迎えの来ない人間はここで待機。いざとなったら体育館や校舎は避難所にするんですって」
「親に子供のもしもの時の責任を押しつけよう、って魂胆ね」
 そう言いながら、リツコは立ち上がる。他の教師達もぞろぞろと職員室を出ていくところだった。
「どうするの?」
 ミサトが手元の書類をまとめながらリツコの顔を見た。
「私は部屋にいるわ。多分、忙しくなるから。それより、加持君がこの学校にいたんでしょう?」
 ミサトは顔を曇らせながらも頷く。
「そうなのよ、あのぶぁか、何しに来たんだか」
「取材でしょう? でも、日取りが悪かったわね」
「いい気味」
 リツコは親友の語調がステップを踏むように軽快であることに気が付いていた。言葉や顔でいくら否定していたとしても、心の奥から漏れ出る光は嬉しそうに輝いている、と思った。しかし、それを口外はしないリツコであった。










 各教室で反応は様々であった。爆発的に興奮のるつぼと化した教室もあったし、水を打ったように静かになったクラスも存在した。しかし、担任から午後の授業は一切カット、唯一HALのネットワーク支配の影響を受けなかった、この街のローカルケーブルテレビでは戦自と米軍が出動して街に包囲網を敷くとの報道を説明ののち、明日以降は事件解決、または安全確認が行われるまで授業の予定はなく、家から外出しないように、との旨が生徒に言い渡された。
「いい? 興味半分やおもしろ半分でウロウロしていると流れ弾に当たっても誰にも文句は言えないわよ。この事件で少なくとも100人以上が犠牲になってる上に、犯行グループは無差別を宣言している。例えあなた達がまだ子供に見えたとしても、気に障ったりすればおそらく容赦なく発砲してくるわ。先ほどのローカルテレビも、どうやら爆破されたみたいよ」
 ミサトがクラスで事件を簡単に説明した時には、このクラスは静かなグループに入った。ひそひそと囁き声がした程度である。一様に、信じがたい、と顔に色濃く塗りたくっている生徒達の中で、シンジ達だけは神妙な顔つきでミサトの言を聞いていた。アスカとレイとヒカリには説明してあったらしく、彼女たちも大人しく聞き入っていた。
 シンジ達は、確かに教師の言葉を守ってテレビの電源を入れることなく、暗い表情で教室に帰ってきたシンジに、理由を問いつめたアスカとレイ、それに一緒にいたヒカリ以外には喋ったりしなかった。もちろん、証拠にテレビ画面をちらっと見せたがすぐにケンスケが電源を切った。
「だから、今各家庭に連絡網と学校から直接の電話の2つの手段で保護者の方たちに連絡を取っています。迎えに来てもらった生徒から帰宅してもらいます。いい、くれぐれも気をつけて」
 犯行グループはテレビ局だけではないことを示すために、先ほど1000万ドルを分割で支払うように提案しようとした頭取を暗殺して見せたのだ。もちろん犯人はすぐに取り押さえられたが、記者会見場では大騒ぎになった。改造銃がカメラに埋め込まれていたため、にわかには誰もが反応できなかった。余談ではあるが、その頭取は記者会見に臨む際にかなり落ち着き払い、毅然とした態度を崩さなかったと言う。彼はこんな事態が起こることをあらかじめ予知していたのかもしれないと、「根拠はないがそう感じた」と、共に記者会見に臨んだ右腕でもある副頭取はのちに語ったという。
 しかし、これの意味することは、市民の中にまだ協力者がいて、司令が飛ぶたびに無差別に市民を殺害できることを予感させると言うことでもある。誰がいつ豹変して銃口や刃物の先を自分に向けるとも限らない。実際、先ほど暗殺を果たした人物は、フリーのカメラマンだったのである。ちゃんと取材許可証を胸に、堂々とカメラを構えて待ちかまえていた。
 ミサトの背筋はもう何度も凍りつく思いだった。本当ならここから生徒達を返したくないのだ。
 最初の生徒の親が迎えに来た。なるべく自家用車で来るように、と連絡してあったので、市中を歩いていて突然殺されることはないだろう。
 ミサトは簡単な挨拶を交わし、すぐにその保護者に、
「なるべく渋滞を避けて。今は多分パニックになって乗用車は身動きがとれなくなりつつあると思いますが、そっちの方がまだ公共機関よりは安全です。大通りも避けてください。人が多いところを狙われる可能性が高いので」
 と告げた。
 あと同じ様なことを何度云わねばならないかは判らないが、彼女は自分の以前の勤務経験を初めてありがたく思った。危険を見抜ける自分自身の能力は、そこから来ていることを知っていたからであった。










「お久しぶり、加持君」
 ノックもそこそこに加持が理科準備室に足を踏み入れたとき、彼を出迎えたのは薬品と埃と気味の悪さの三重奏であった。
「やあ、リッちゃんも元気そうで何より」
「心にもないことを平然という癖、まだ直ってないのね」
「こりゃまた手厳しいね」
 加持は笑って受け流した。
「それで、何故戻ってきたの?」
 リツコはパソコンの前に座ってキーを叩き続けている。質問の内容の割には無関心にも見えた。
「仕事さ。ジャーナリストとしての本分をやっと取り戻せそうなんでね」
 もちろんリツコは知っている。彼がどのような人生を歩んできているか。そして、そのジャーナリストとして出発したのちにどうなったのか。加地はゆっくりと近づき、手のひらでリツコの顔をそっと包むようにして触れる。
「まあ、生きて帰って来れたんだし、これからはこっちで隠遁生活でも送るつもりだよ」
 耳元で囁くように、彼は云った。
「働かずに?」
 一方、リツコはそんなことはまったく意に介していなかった。加地の手はリツコを抱きしめるかのようにゆっくりと動き続けている。
「いや、働くさ。ただし、なるべく楽をして」
 加地の手を不躾にならない程度に退けると、リツコが初めてイスごと後ろを振り返った。
「少し痩せた?」
 リツコは加地の手を見ていった。
「最盛期より10キロは落ちたよ。すぐに戻るさ、日本にいれば」
 加持は肉の落ち気味な頬をなで回す。いつもはミサトが座る丸イスを見つけ、大儀そうに腰を下ろした。
「久しぶりにおいしいコーヒーを頂きたいんだけどな」
「ここに来た目的は理科教師が準備室にこもって何をしているかを暴くためじゃないのかしら?」
 加持もにやり、と笑ったのみで答えない。リツコも探るような視線を加持のそれと交わらせたが、すぐに外して白旗を揚げた。
「いいわ。ご馳走してあげる」
 リツコは立ち上がってあらかじめ作ってあった数種の豆の粉末を取り出して、秤やビーカーやガスバーナーを用意し始めた。彼女のこだわりは沸かす時間やブレンドにも及んでいた。ミサトの淹れる不味いコーヒーとはそこのあたりが違った。
「それより加持君、あなたがここにいるってことはまた何か一悶着あるんでしょう、いったい何を隠してるの?」
「なーに、葛城とよりを戻そうかと思ってね」
「あなたがそう言うと、まるっきりウソに聞こえないから不思議」
「酷いな、これは結構マジな話だよ」
「そう言うことにしておくわ」
「まあ、リッちゃんなら言ってもいいか。と…」
 加持は先ほどまでリツコが座っていたデスクのモニターを見つめる。
「そっちこそ準備してるじゃないか。もうプログラミングもほとんど終わりかけているみたいだね」
「秘密よ。お互い様でしょう。それに、校長に子供達を早く返すように進言したのはあなたね」
 降参だ、と今度は加持が両手を挙げておどけて見せた。
「何もかもお見通しか。さすが、赤木リツコ博士」
「ただの中学校教諭よ」
 さりげなく訂正しておいて、猫のコップに黒い液体を注いだ。湯気と共に立ち上る香りを満足げにかいで、自信たっぷりの表情で加持の横に置いた。
「そういえば、ミサトにもう会ったんですって?」
「ああ、平手打ちされる前に逃げてきたよ」
 力無く笑い、顎に生える無精髭を触って、加持はコーヒーに手を伸ばした。




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