その理科準備室では、リツコの指示の元で幾度となくシミュレーションが繰り返されていた。この世に並ぶモノのない演算能力を誇るMAGI。それを完璧に操るためのトレーニングが既に2時間近く続いていた。
「5回目、準備いいわね?」
「はい」
 マヤが軽快に答え、マコトとシゲルもリツコの目を見て頷く。気力が充実していて疲れなど微塵も感じさせない顔をしている。
 満足そうな顔で3人を見た後、リツコは自分の手元のノートパソコンのエンターキーを押した。
 ミサトがリツコの後から液晶画面をのぞき込む。彼女の目に飛び込んできたのは猛烈な勢いでしたから上へとスクロールしていくプログラミングだった。文字の羅列が留まることを知らず流れ続け、すぐさまマコトの前でフォログラフによる浮遊ディスプレイが警告の意味を示す画面に切り替わった。
「第35から42までの回線よりハッキングを感知!」
「防御壁を展開。作業完了まで後15秒」
 マコトとシゲルが猛烈な勢いで、コンソロール上で指を走らせはじめた。と、ほぼ同時にマヤもいくつかの作業を始める。
「第二次防御壁を展開。敵は第一次防御壁のパスワードを検索中。……Gコードをクリア、突破されました! く、早い」
「ハッキング元を探知、ハッキング元は中国のMAGIタイプ『賢人』と断定されました。逆ハッキング開始します」
「敵は現在主防御壁まで到達、この勢いだと120秒後には突破されます」
「『賢人』のメインバンクを検索、相手隔壁突破、逆ハック完了まで……約3分です」
「迂回し始めました。敵は擬似エントリーに手を焼いています。これで時間が稼げます!」
「人工進化促進プログラムを投入します。『賢人』の処理速度が上がりました」
「残りの全ての擬似エントリーと防御壁を展開、ロジックモードを変更、アクセスタイム制限開始」
「敵のオーバーロードが始まりました。ハッキングが収まります」
「『賢人』の16桁パスワードをクリアしました。『秀人』のパスワードも検索中、クリアしました。自立睡眠を提案。『才人』が拒否」
「『才人』もまもなく支配下に入ります。……完了、敵、自律睡眠承認されました。以後36時間は完全に機能しません」
「はい、ご苦労様」
 3分にも満たないこの僅かなときの中で、彼ら3人はリツコの期待に完璧に応えたと言っていい。適材適所だとは思っていたリツコではあったが、ココまで機能するとは思っても見なかった。
「いやー、ちょっとしたゲーム感覚で楽しいですよー」
 マコトがメガネをクイッと押し上げながら笑みを漏らす。リツコが彼を見込んだのは、状況対応能力が高いだろうと思ったからである。
 実際、今まで計5回ほど他の端末からMAGIにクラッキング、もしくはハッキングをしかけて、それらの攻撃に対する処理とこちらからの攻撃に関して主導権を握ったのは彼がいたからに他ならない。マコトの趣味はコンピューターとサイクリングだが、その片方の趣味の欲求をフルに解放して楽しんでこのシミュレーションを行っていた。
「俺はあんまり楽しくないが、……それなりに刺激になってます」
 シゲルの場合、コンソロールに向かってやることはマコトのサポートのような仕事である。マコトが波の威力を弱めるテトラポットであるなら、彼は最後の堤防のようなものだろう。そして、最終的な決断を下す事になっているミサトやリツコに、処理の没頭するマコトやマヤに状況を把握させる報告をするのも彼の役目だった。この役に彼が選ばれたのは、シゲルが高校時代に放送部でDJやっていたことがあるというだけの安直な理由からなのだが、意外と適役らしかった。
 マコトとシゲルの2人は大学時代に理系が専攻だったのでコンピューターには割と強く、一度慣れてしまうと2回目からのシミュレーションでは敵を退ける為に要した時間が半減したくらいである。もっとも、彼らが使いやすく、持っている知識だけで操れるように簡略化したのはリツコだった。
 マヤの場合はホッとした様子で深々とイスの背もたれにもたれかかっている。男性陣よりも複雑なプログラムを自在に操っているマヤを見て、さすがはリツコが頼みにするだけのことはあるなぁとミサトは思った。
「先輩、本当にこんな事しちゃって大丈夫なんですか?」
 マヤが言ったのは、中国のメインコンピュータを36時間も使い物にならなくしてしまったことである。1回目2回目は簡単なプログラムだったが、3回目のシミュレーションからは国家レベルのコンピュータを使ってMAGIにアクセスかけさせていた。今、中国と香港とカナダにミサイルが飛来してきたら彼らは防御する術を持たないだろう。今頃技術者達が右往左往している姿がマヤの目に浮かんだ。
「構わないわ。外部から操れるようなセキュリティーで安寧を決め込んでいる方が悪いのよ」
 リツコには悪びれた様子は全くない。中国のMAGIタイプのコンピューターやカナダのIBM最新鋭のスーパーコンピューターにハッキングさせたのはリツコである。先ほど、エンターキーを押して流れていたのは乗っ取るためのプログラムを国家主席専用のホットライン用回線を使って送り込んだ。結果、2,4秒で中国MAGIはプログラミングを書き換えられてしまった。天才の名をほしいままにする彼女の母親の陰に隠れてはいるが、ソフトウェア運用の方面にかけてはリツコの方が一日の長があるらしかった。
 マヤがコンソロールをまた叩きはじめた。今まで使ったデータを消去して、ログを跡形もなく消去させるためである。ほとんどはハッキング中に平行して行っているが、完璧を期すためのチェックを怠るわけにはいかない。資料などや反省点の材料などの必要なモノはもう既に別の場所に保管してある。彼女の手にかかれば、中国と日本の間でかわされた情報戦の跡形など、チリ1つ残さず掃きとられてしまう。マヤの担当は相手側のコンピューターの特徴解析、その後攻撃用プログラミングを短時間で完成させることである。一から書くのではなく、既にパーツのように100個以上もあるプログラムをくっつけ、こね合わせ、引き延ばし、まるで食材から料理を生み出すようにウィルスを作り上げる。そのため1から作成するより遙かに時間短縮が可能になった。これはマコトが1回目のもたつきから反省した後に出したアイデアであった。それからマヤはベースとなる60個ほどのパーツを作り、後は必要に応じて増やして使っていた。
「さすがにリツコ先輩直伝ね」
 今度は口に出して、ミサトが半ば呆れたように云った。皆が鮮やかすぎて、シミュレーション中は言葉がなかった。
「はい、本当に先輩はすごいです」
「おだてても何も出ないわよ」
 リツコは軽く笑い、また表情を引き締めなおした。
「これだけできれば多分大丈夫ね。そろそろ本題に入るわ。でも、みんな薄々何をするか気がついているんじゃない? 特にミサト」
「ハッキングじゃなくて、クラッキングするんでしょう、HALを」
「HAL!?」
 素っ頓狂な声をあげたのはマコトだった。声はあげなかったが、シゲルの方も似たり寄ったりの表情で口をポカンとあけていた。
「マジっすか? あのHALを?」
「ええ、世界の中でも3本の指に入るスーパーコンピューター『HAL』をクラックして使用不可能に陥れるのが今回の目的よ」
 一方のリツコは涼しい顔をしている。言うのは容易いが、実行するとなるとシゲルにいたっては軽いめまいを覚えたほどだった。MAGIやHALクラスになると、防御壁を突破するだけでもどれだけの時間を要するか見当もつかない。今まで演習で相手にしてきたのはこちらの10分の1から半分程度の演算、処理能力しか持たない機械群だったのだが、HALは特別なマシンである。通信部門における処理速度はMAGIよりも速いとの噂が、現実的には通説とされていた。その他の性能でもMAGIとほぼ同等であろうと云われている。違うのは、その存在が未だもってどこにあるのか判明していない匿秘性くらいのものだった。MAGIは第3新東京市にあることは世界の常識であった。
「あなたたちも知っての通り、現在の全世界のマスメディアネットワークを完全に手中に収めてしまったHALだけど、ひとつ失敗を犯したわ」
「何?」
 ミサトがリツコの背中に問いかける。ミサトの顔を横目で見た後、
「MAGIを支配下に置けなかったことよ。さすがのMAGIも母さんが側にいないと奇襲にはどうにもならなかったでしょうね。でも、時間を置いたことでこちらにも取る手段ができたわ。ミサト、説明してあげてくれる?」
 リツコは目で「あなたなら判るでしょ」と云っていた。
「シリウスの連中はまず最初に全力でMAGIから落とさなくてはならなかった、って事でしょ? まともに2つのスーパーコンピューター同士が戦いあえば、結果はソフトウェアの運用で勝った方が勝利する、と。その手の大天才様がココにいるんだもんねぇ」
 リツコを見るマヤの眼差しは憧れと尊敬の入り交じったものだった。
「私が天才かどうかは知らないけど、とにかく相手側を叩く万全の準備はしているつもりよ。だからみんな、私に力を貸してちょうだいね」
 柔和な表情を見せるリツコ。大人の女の貌から少しだけあどけなさが浮かび、シゲルとマコトはドキッとした。少しだけ動悸が早くなった。
「大卒程度で専門家でもなんでもないですけど、やれるだけはやってみますよ」
「ゲームでしょ。なら今からが面白くなるんじゃないですか」
 それぞれの答えを聞いてマヤも云った。
「先輩のためなら喜んで」
「ありがとう」
 リツコが振り返ると、ミサトが少しだけ笑って頷いていた。
 彼女との間に言語は必要なかった。










19時05分。
「いよいよ作戦は最終局面に入る。各自最終チェックは怠らずに。いいな」
「「はっ!」」
 数人の返答が唱和する。満足そうにクラークは部下達を見渡した。世界中の特殊部隊の中でも、市街戦と潜入などの諜報活動に優れた人員を集めて鍛え上げた生え抜きのエリート達だった。頼もしい、そして誇るべき戦友達に1つ敬礼し、クラークは最後の司令を下した。
 総勢20名程度の兵士達が一斉に散らばっていく。後には数人が残ったが、彼らは最後までクラークの側でテレビ放送を続け、赤木博士を監視する兵士達だった。
 カメラの前に立って、1つ咳払いするとクラークは目線をレンズに固定してキューを出させた。
「我々の要求と計画は概ねにおいて満足の得られる結果になった。1930をもって撤退を開始する。ただし、1856名の捕虜を生還させたくば、この建物を囲うように展開している米国軍と戦略自衛隊の6部隊を全て後退させてもらおう。作戦開始時までに、この建築物の半径5キロ以内に軍靴の1つでも発見したなら全員の生命の保証はない。逆に、我々の妨げをしなければ全員の命を取るような蛮行は行わないと約束しよう。証人は視聴者の諸君だ。繰り返すが、まず最初の候補者は赤木博士だということを忘れないように。人類全体が大きな損失を出すことになる」
 クラークはそこで放送を打ち切った。
 そのあとは、カメラのほうを見ようともせずにセットから降りてくる。
 大またでスタジオの外に出ていこうとする彼を部下が呼び止めた。
「どうした?」
 彼はクラークの隣に並んで歩きながらメモに目を落とした。
「どうやらHALにアクセスしてきた人間がいるようです」
「下らん。さっさと片付けろ」
「それができないのです」
 クラークの眉が上方へ少し動いた。
「どういうことだ?」
 部下はクラークの言葉を浴びて身を硬くしたが、声はしっかりと吐き出した。こんなことでどもっているようではこの部隊で生き残ることができない。
「はい、一般の、たとえば先進国の政府コンピューター程度のハッキングではHALの防御壁を犯すどころか、こちらからの逆ハックでダウンしてしまいます。しかし、今回アクセスを仕掛けてきたコンピューターは防御壁に小さな穴をあけました」
「閉じることができないのか?」
「ええ、それどころかそこを橋頭堡として徐々に広がりを見せています」
 クラークも部下の兵士も悪寒を感じた。彼らの操るHALとは、たとえ米国の国防総省のコンピューターに進入できるようなコンピューターでも簡単に排除してしまう。しかし、今回進入を図った相手は針の先ほどの穴を軽々と空けてしまったという。そもそも、先に張ったAダナン型防壁とは外部アクセスを極端に制限するプログラムである。Bダナン型は完全に外部からのアクセスを不可能にしてしまうプログラムなので今回は使えなかった。だが、Aダナン型であっても、一度使ってしまえばHALがもう一つあったとしても10時間はかかると思われた。
「HALを超えるような演算能力のコンピューターを使用してるとでも言うのか…」
「そうでもない限り不可能です。HALは私の知る限り最高のスーパーコンピューターです!」
「それは判る。ハッキングを仕掛けてきている相手はわかるか?」
 クラークは熱くなっている部下をなだめるような顔でそう云った。云われた側は顔を赤らめて、
「え、あ、はい。それがまだ…」
 兵士は言葉を濁した。裏を返せば、簡単に判らせてくれるほど相手は弱くないということである。クラークの中にありもしない可能性が浮かぶ。
「落ち着け。HALにアクセスできるコンピューターなど、世界中を捜したって10もない。しかも相手は完全に姿を消すことができるような奴だ。電子的に判らなくても、人間の想像力を使えば答は出ると思わないか?」
 クラークは涼しい顔でそう云った。言葉ほどに落ち着いているわけではなかったが、部下の前で動揺することはできない。それが上官の務めでもある。
 オペレータ兼任の兵士は顔を青くした。クラークと同じ名前が脳裏で点灯した時、彼の思考は一瞬止まりかけた。HALを超えると思うスーパーコンピューターはただ一機だけ存在するのである。
「まさか……そんな………。赤木博士は我々が拘束しているのですよ」
「だが、こんな芸当ができる奴はこの世で一つしかあるまい。相当腕利きのオペレーターと有能な指揮者がいるよいうだな」
 苦々しげに呟いた。部下はクラークの顔を直視できなかった。
「まあ、いい。それ以上は進行速度は上がっていないんだな?」
「は、はい。現在の速度が精一杯だと推測します。性能はほぼ互角なのですから、後10時間ほどは耐えられるかと…」
「それだけあれば十分だ。とにかく、今からの作戦に支障がきたさぬよう、監視と自律防御は怠らせるな!」
「ハッ」
 慌てて走り去る部下を、冷笑すら浮かべながらクラークは呟いた。思い直し、すぐに厳しい表情を取り戻す。
「……しかし、誰がMAGIを操っているというのだ?」










「すごいすごいとは思ってたけど、まさかココまでやるとはねぇ…」
 ミサトがリツコのキータッチ速度を賞してそう云った。リツコはただキーを打っているのではない。ワープロを使う専門の人間よりも華麗に、ピアニストのような指使いでプログラミングしているのだ。
 脳の中でプログラムを作り出し、それを実行していく姿は即興の曲を披露する音楽のそれと類似していた。マコトとシゲルは最初それを口を半開きにして見ていた。あきれる前に凄さに圧倒されたのである。しかしいつまでも見とれているわけにも行かず、すぐに自分たちの作業にもどる。
 それに比べるとマヤも同じような作業を行っていたが、こちらはまるで子供のように見えた。もちろん彼女が童顔だからというわけではない。一般的なレベルから見れば、彼女も驚嘆に値するほど早いのだ。それほどまでにリツコは飛び抜けて秀でていた。
「マヤ、準備はいい?」
 マヤのほうは額に汗を浮かべながら、それでもあくせく作業をしている。マコトとシゲルはモニターをにらみながら防御をこなす事に必死だった。気を抜けばこちらまで攻撃を受けるのはいうまでもないことだった。彼らも、相手の苛烈な攻撃に辟易し、手を焼いていた。
「はい、いつでもいけます」
 マヤは明快に答えた。
「二人とも大丈夫?」
 リツコは声を男性陣に向ける。
「ええ、赤木先生の10分の1は働かないと面目が立ちませんからね」
 マコトは額を汗をぬぐうようにしてリツコのほうを見る。
「余裕かましてる場合か! 目を離すなよ、マコト!」
 すぐに隣から叱咤がとんだ。普段なら言い合いでもはじめるところだろうが、軽口をたたいている場合ではないらしい。彼らの眼球と指先は休むことなく画面とパネルを動き回っていた。
「マヤ、こちらにそれを転送して。中継して同時に送り込むわよ」
「はいっ!」
「ミサト、あなたも準備はいいわね」
「ええ、いつでも。やることなんて殆どないけど」
 そちらのほうが事態としては好ましい、とミサトは思った。自分のキャリアを生かすような事態はなるべくなら避けたかった。
「マヤ」
「いつでもいけます!」
 時計の針は、ちょうど19時29分10秒を指していた。
 リツコは目で了解の意を示すと、何かを考え込んでいた。
 時計を見上げる。
 また画面に目を戻す。
 ミサトの顔を伺うようにリツコは尋ねた。
「まだ、何かある?」
 釈然としない顔でミサトは頷いた。
「勘の範疇を出ないけど、何となく予感がするわ」
「どんなことかしら?」
「今よりもっと面倒なことになりそうな……今は何ともいえない」
 それは予感ではなく、確信めいたモノの言葉に聞こえた。
 次の瞬間、部屋のテレビの画面が切り替わった。
 黒から、凄惨な虐殺の場へと。










 19時30分。
 米軍の海兵隊も戦略自衛隊の陸戦部隊も既に撤退を完了していた。ただし、表向きは、である。テレビ局の周りのビルのあちこちにスナイパーや一般兵士を配置して、どの方向から現れても対処できるようにしていた。今、もし誰か路地の上を歩いていようものなら、四方八方から銃弾の雨を浴びることになる。無差別発砲は許可されていなかったが「局半径2キロ以内の同盟部隊以外の人間」は射殺してもよいと指令を受けているからである。
 だが、相手の人員が完全に把握できない以上殺すわけにはいかない。よって、装備は強力な即効性の麻酔弾と通常弾の二種類になってしまう。下手に誰かを射殺しようものなら、人質全員が犠牲になってしまうだろう。
 共同指令本部は松代に置かれていた。
 総司令は日本側の城山陸上補であった。アメリカでいえば准将クラスである。在日米軍の最高司令官は城山よりも上位の人間はいたが、日本での事件である事と、市街地戦闘の心理学専門出身である城山の経歴が現在の身分を与えていた。
 彼は部隊を配置したものの、打つ手がなくて実は参っていたのである。まず考えなければならないのは人質となっている人間の安全だった。城山は人質と犯行部隊の切り離しを基本路線として立案、実行に移している。
 必ずしもスムーズに実行できているとはいえなかったが、それでも満足すべきだと自分に言い聞かせてモニターをにらみつける。
「報告します!」
 通信機の前に座るオペレーターががなり声をあげ、後ろの城山に向きなおった。額に汗がにじみ、顔は苦渋でゆがんでいた。
「どうした?」
 城山が不審そうな顔をした。目標が動いたのであればそんな顔をする必要はないだろう、と彼は思った。事実、報告といわれた時点で城山は目標に対する攻撃指令を下すつもりだったのだ。
「西2−7にてバリケードが突破されました! 民衆が市内に流れ込み始めています。このままでは暴動に発展します!」
「なんだと!?」
 普段冷静であるはずの彼が、思わず体を乗り出してしまった。隣に控える副官はポカンと口を半開きにし、驚きを隠そうともしなかった。いや、できなかったのである。現に、彼らの視線が注がれた先のモニターでは、築かれたバリケードを乗り越え、止めようとする自衛隊員を人海が押し流していく。その波は留まるところを知らず、何万という人々が市内に流れ混み始めたのである。
「まずい、全部隊に通達、無条件発砲を禁止だ。こちらから別命あるまで待機。身を隠してなるべく市民との衝突は避けろ!」
「しかし装甲車などは…」
「今すぐに撤去させる方法はない。武器での威嚇は許可するがなるべくは使うなと言え! 人々が殺気立ってしまえばもう止める手だてはないんだ!!」
「は、はいっ!」
 雷鳴を至近で聞いた子供のように、オペレーターは震える声ながら任務はきっちりやってのけた。
「ちっ」
 城山は激しく舌打ちした。先ほどのオペレーターと同様に右往左往を繰り返す部下たちを恫喝すると、やっと秩序だった行動をとり始めたのを見て、また舌打ちする。
 落ち着いたオペレーターの1人が、別のバリケードを突破されたことを報告したのが原因だった。
「何でこんな事になった?」
 その呟きは云った城山の耳にも届かないほどの、無意識に出た小声だった。
 モニターに、また新しく雪崩れ込む市民が映っていた。

 城山の疑問に対して完全なる答えを述べるためには、時計の針が少しだけもどらねばならない。
 先ほど行われたクラークの放送には続きがあったのだ。一瞬だけブラックアウトしたが、すぐにテレビ画面は画面の外から中央へ歩いてくるクラークを映し出していた。しかし、その映像は一般家庭などにしか放送されていなかったのである。
 城山達が見ることができなかった原因は、コンピュータによるコンピューターの支配が当然挙げられる。HALによる支配はもちろん軍事衛星の受信基地にも及び、一時的に向きを変えていた。つまり、アンテナが衛星の方角以外の空を向かって傘を広げていた。それにくわえて軍事拠点という拠点が全て電波妨害、電子的な回線は全て許容不可能なほどの負荷情報を流され一時的に麻痺、現在司令部などの置かれているキャンプ地でも通信網をHALが用意したダミーを見ていた。
 つまり、軍事的作戦に関わる人間達の大半は殆ど続きの放送が行われていないと思ってしまったのだ。それに、続きの放送が行われたのは第3新東京市付近にのみであった。
「さて、ここからが本番だ、諸君。現在は日本の第3新東京市及びその郊外にのみ放送されている。一度しか云わないのでよく聞いてほしい。そうしなければより多くの犠牲者を出すことになる」
 テレビを見ていた者、もしくはラジオで聴いていた者は皆一概にその言葉を信じていた。
「ココに資料がある」
 そう云ってクラークが画面の前に見せたのはこの街における避難所の一覧であった。
「ふむ……この街には地下を含めて150箇所以上の避難場所があるということらしい。災害対策は万全だというわけだな。そこで、だ。私は部下に命じて先日この避難場所の50箇所に爆弾をしかけさせた。何もN2爆弾ほどではない。学校のグラウンドが吹き飛ぶ程度のモノだ」
 クラークは相変わらず気楽な口調でそう云ったが、見ていた者聞いていた者はたまったモノではなかった。早速、クラークには聞こえない各所で悲鳴や奇声が上がっていた。クラークが云ったN2爆弾とはN2と呼ばれる兵器のなかの1つである。核を除けば最大級の爆発力と熱量を誇る、日本が開発した技術であった。地雷、爆雷、爆弾などが現在実践装備されているといわれていた。というのも、実際に実践で使われたことはまだ無いに等しいからである。公で使われたことがあるのは一度だけだった。
「さらに付け加えよう。市の主要施設、例えば駅、ターミナルや港、空港に幹線道路などの人々が移動するために必要だと思われる所へも、無作為に選び出して爆弾がセットしてある。その証拠に、」
 クラークがパチンと指を鳴らすと画面はとある橋に切り替わった。画面の右下にクラークの顔が映ったウィンドウが現れ、もう一度彼は指を鳴らした。
 ドドーン
 下腹部に響くような轟音が、爆弾がコンクリートを破壊したことをあたりに誇示しながら広がっていき、4車線の橋は中心部分がきれいに吹き飛ばされて使用不可能となった。
「御覧の通りだ。今までの事件は余興に過ぎない。諸君等が助かりたければ、やらなくてはならないことはただ一つ、ココにいる赤木博士を助け出すことだ。彼女だけが、現在我々が占拠している世界中のネットワークを解放することができる。現在数多くのコンピューターが我々のメインコンピューター『HAL』に攻撃をしかけてきているが、はっきり言って無駄だ。今張っている防御壁はそんなに甘いモノではない。しかし、赤木博士はそれを突破できる唯一の人間なのだ」
 テレビの前の人間達は身震いしたに違いないとクラークは確信している。それは当たっていた。
「よって明日00時00分までに赤木博士を諸君が確保できなかった場合は自動的に各所のタイマーが作動、同時に炎が天を焦がすことになる。先ほどの放送の通り、我々は今から撤退を開始する。赤木博士はこのテレビ局の一室に監禁してある。諸君が家族や恋人、そして自分の命を少しでも長らえさせたいと思ったなら今すぐ彼女を助けに来ることだ。自衛隊や米軍は人質の安全を第一に考えて突入できないでいるが、私達は少なくとも彼らのように意味もなく民衆に銃口は向けない」
 さらにクラークは解除の方法はHALとネットワークの接続を断ち切るか、もしくはハッキングをしかけて乗っ取らないとタイマーは止まらない、と云い、米軍や戦自には無条件発砲が許可されていると、付け加えた。
「彼らに頼らないことだ。結局、自分の命は自分で守るしかないのだ。それでは諸君、良い夢を」










 誰かが何処かの避難所で叫んだ。
「俺達の手で赤木博士を救うんだ!」
 殺される、と誰かが反論しても、
「どのみち、このままだと全滅するかもしれないじゃないか」と云われるとそれ以上言葉が続かなかった。皆が、死の恐怖にうち勝つために目をギラギラとさせていた。老若男女問わずに。
「目の前に生き延びる道が提示されているんだぞ! 行かなきゃ自分で命を放棄してるも同じだ!」
 ある青年が立ち上がって、大声でそう叫んだ。後を追うように数人が各所でぱらぱらと立ち上がりだすと、程なくして殆ど全員が立ち上がり、テレビ局を目指して走り始めていた。
 最初に立ち上がって叫んだ青年は純粋にそう思っただけだった。だが、彼は気が付いていない。
 それが、クラークの狙いであることに。煽動を待っているのだということに。










「人間を行動に駆り立てる一番効果的なファクターってなんだかわかる?」
 今まで殆ど押し黙っていたミサトが、クラークの爆破予告放送後に発した第一声がこれだった。
「え、さあ…。マコト、お前は?」
「多分、恐怖とか怒りとか、じゃないかな」
 マコトとシゲルが顔を見合わせている。
「惜しいけど違うわ」
 ミサトの顔は渋面だった。相手の作戦があまりにも汚いと思ったからだった。
「希望」
「希望…ですか?」
 マヤが疑うような目つきでミサトを見上げた。
「そう、絶体絶命の窮地などで射し込んだ光明。人間とはその光が見えると一心不乱に行動してしまうモノなのよ。それにね、1人動き出したらつられるように3人が動くの。そして、その3人につられて1ダースの人が行動を起こし始める……」ミサトはモニターを見た。何処かの屋上のカメラが、ストリートを怒濤の勢いで突き進む人々の姿を映しだしていた。「そうなれば後は暴動にも似た、ただの無秩序な騒ぎだけ。最終的には本当に暴動になるわ。近いうちに略奪が始まるわよ」
「だから、私達が急がなくちゃいけないの」
 重くなった空気を振り払ったのはリツコの声だった。
「さあ、ミサトのいう通りになる前に、終わらせるわよ。第2波の準備、できてるわね?」
 マヤは「はいっ」と答え、マコトは頷く。シゲルは親指をぐっと立てた。
「逆ハッキング開始!」
 凛とした声が、大きくはなかったが染み込むように響いた。
 リツコの、静かな宣戦布告であった。










 加持は空を見上げた。
 瞬く空の星ぼしが彼を飲み込むかのように虚空が広がっている。
 つけっぱなしのラジオがノイズに混じった放送を届け続けていた。
『自分の命は自分で守るしかないのだ』
 クラーク少佐のセリフが加持の心の何かを捕らえるが、すぐに霧散するように解けて無くなっていった。センチメンタルな感情を抱くようなセリフじゃないだろう、と自嘲する加持。
 同じセリフを何処で聞いたっけかな?
 確か、2007年のヨーロッパあたりじゃなかったか……。
 パチンとラジオのスイッチを切り替えた。チャンネルを変えると、今度は明らかにラジオではない会話が飛び込んでくる。どこかの部隊間の連絡用チャンネルらしかった。ケーブルテレビ用のケーブルの一部を使って電波を飛ばしているようで、電波障害を受けずに聴ける唯一の手段だった。じっと耳を凝らし、一度聞いただけで全ての固有名詞と大筋を覚えていく。これも体に染みついたクセなのか。
「さて、お仕事お仕事」
 立ち上がって、下を見おろす。屋上からは、理科準備室から漏れる光だけが見えた。グラウンドを少しだけ月明かりより強く照らしていた。
 胸のポケットからタバコを取りだし、思い出したようにまた元の場所へしまった。
「禁煙嫌煙。ココは中学。タバコの吸い殻なんか落としちゃダメだよな」
 自戒を込めながらそう云い、非常口へと歩いていった。
 また思い出したように空を見上げる。
 先ほどは見えなかった、雲が隠していた夜の王が姿を現していた。










 空に月が昇る。
 哀しいまでに紅く染まった月が。
 夜空の王は虚空の高みより何を哀しげに見下ろしているのか、誰にも知る術はない。




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