いつもとは異なった意味で、戦略自衛隊司令部は混乱の渦中にたたき込まれていたと言えるだろう。本来、こういった事態に陥るのは敵の攻撃が受けたときや命令伝達系統の破壊、つまり通信の妨害が主だった原因であるが、今回は突然通信状態の回復による過剰な情報量流入によって引き起こされたパンク状態が混乱の原因だった。なにしろ、HALによるネットワーク全支配のため、回線を全て開いていてもか細い受信しかできない状態だったのだが、その全回線オープンが災いした。
 オペレーターは必至になって必要な回線、必要でない回線を区別しようとしているが、数は3人のオペレーター1人1人につき250以上あった。これは、テレビのチャンネルを面白くないから次に飛ばす作業によく似ていた。だが、5個や10個なら判るにしても、映像だけでそれだけあるのである。音声を含めると、作業完了までに一晩を要してしまうだろう。それでは遅かった。
 司令官たる城山はその中心でじっと状況を見つめていたが、ある一点に気が付き、副官竹中を呼んだ。そして、喋るのもまどろっこしそうに自分の考えを伝えた。自分の思い立った発想と結論をデータ化し、瞬時に全員の頭の中にコピーできればさぞ便利だろうとも思ったが、それは別の意味で城山の嫌悪を誘い、苦々しい表情を竹中に見せただけで終わった。
「全ての回線を長野の総司令部のメインバンクにいったん回せ。メインフレームが勝手に処理してくれるはずだ」
「は、しかしネットの占拠がいまだに……。それにメインフレームでも、この量では無理です。メインフレームごとシステムがダウンしてしまいます!」
「心配ない。HALは敗れた。メインフレームも数時間持てばいい」城山はむしろ素っ気なく竹中の言葉を否定した。「それより早くしろ。部隊の展開状況がつかめないままでは今後に支障をきたす」
「了解」
 この情報の氾濫はHALの規制が突如として解放されたためであることはいつか皆が気付くだろう。城山は瞬時にこのことを見破っていたが、彼にしてみればこのチャンスが『シリウス』を捕縛する最後のチャンスだった。ほぼ100%抵抗してくることは、火を見ることよりも明らかであるから、彼はもっとも嫌い、そして疲労を蓄積させる命令を下すことになるだろう。
 全員、射殺セヨ。
 人を殺すことが疲れるのではない。犯人達が死ぬことを恐れていなければ、それは自殺の補助でしかない事を彼は知っている。そんな狂信者達が相手であれば今少しは楽だっただろう。彼は犯人達が“この世界でしか生きられない男達”であることを判っているから気が重いのだった。彼らの中には誰かに殺されなければ死ねない人間も必ず混じっているはずなのだ。
 城山が深い溜息をついたとき、ホットラインの電話が鳴った。正確にはテレビ電話である。
 通話状態にすると、そこには20代後半とおぼしき黒髪の女性の姿があった。一瞬誰だ? という思いと、概視感に精神が覆われる。だが、相手の女性は城山の意外そうな顔にもこれと言った反応は見せず、繋がったことを確認するなり用件を喋りはじめた。
「戦略自衛隊『シリウス』事件担当、総司令城山陸上補ですね?」
「そうだが、君は?」城山も一端会話をはじめると、いつもの城山に戻ってきていた。時が時だけに、相手が通信回線に割り込める力量がある以上聞くべき情報であろう、そう判断してホットラインの番号の出所を問い質したりはしなかった。
「私は第3新東京市立第一中学校教諭葛城ミサトです。現在、テロリスト達が学校内に侵入してきています」
「では、いまあの学校に…」
 城山は今彼女の話しぶりから、葛城という女性が何処か学校の一室にいることは瞬時に判断できた。どうやってこのホットラインに通信を飛ばしてきたかはともかく、シリウスと戦うために中学校へ突入できなくなったのは確かだった。
「私他9名がまだ校舎内に取り残されています」半分嘘である。取り残されたのではなく、わざと残ったのだ。「ですから、遠距離からのミサイルなどを含めた攻撃の全てを一時中止して下さい。まだ子供達も3名ほど校内に残っています」
「了解しました。だが、あなた達の身辺の安全は……」
「それは大丈夫、心配しないでください。私達は生き残れます。それよりもこの回線を閉じずに待機しておいて下さい。機を見て合図したら、部隊を突入させるよう、緊急に再配備を。あ、それとテロリストが街中にセットした爆弾は全て解除されています。配置図を転送しますから、すぐに撤去作業にあたってください」
 それだけいうと、ミサトは一方的に通信を閉じてしまった。城山の「待ちたまえ」という声も届かなかった。だが、通信状態はONになっているので映像の部分だけ切られたのだろう。音声だけはまだ届いている。正確には保留の状態をキープしてあるのだろうと推測された。
 彼は部下を呼び、メインパネルにホットラインを待機させておくように、と伝え目を閉じた。確かに学校にミサイルを撃ち込むという手段もあったが、これで使えなくなった。竹中が「味方の被害を最小限に」と主張した攻撃方法はこれであったが、城山は反対だった。犯人達から各地の爆弾の対処方法が聞き出せなくなってしまい、結局は被害が軍人ではなく民間人に及ぶことが危惧されたからである。それ故に、自分の被害も目を瞑るつもりで特殊部隊3小隊を用意したのだ。
 先ほどの……あの葛城という女性は……。
 彼の記憶の中にかけられている登場人物の中の一枚に彼女に似た肖像があった。その肖像画を手に入れた場所を思い出そうとしたとき、学校の近くの民家にスナイパー隊の配備が完了した、と報告が入って、彼の記憶の橋頭堡すら吹き飛ばしてしまった。
 やや残念そうな顔で、城山は「何があっても指示があるまで発砲を禁ずる」と命令し、席を立った。
 テントからでると、薄暗いテント内よりも月明かりの夜空の方が明るかった。彼の視線の先1キロほどの所に白亜の学舎が鎮座している。『シリウス』を刺激しないよう、地上やヘリコプターからライトで照らすことを禁止していたが、例え照らしていたところで何も起きないであろう。だが、彼の後にいる現場のことは何一つわからない背広組の上司や、一隊員にはそうと決めつける根拠がない。よって、彼は取るべき手段を自ずと制限されている立場なのだ。
 しかし、その煩わしさすら忘却の彼方へ送り込んでしまうほどひっそりと静まり返っている夜だった。










 アスカはジッと目を瞑り、そして決心して目を開くが、夜に飲み込まれそうな気がしてまた目を瞑ってしまう。
「アスカ」
 シンジの弱々しい声が彼女を呼ぶ。アスカはハッとなってシンジの方に振り返った。
「何?」
 自分でも声の語尾がいつもより音程がずれていることに気がつく。もう、自分を奮い立たせる必要も感じていなかった。服を着た殺意が、確実に自分たちへと近づいてきていることを実感していたからだ。銃声がするわけでもないのに、体は知らず知らずのうちに小刻みに揺れている。
「僕の手、見える? ……なんだか変なんだ」
 雲間の月の光に照らされたシンジの手は、いつもよりもさらに白く見えた。
「見えてるわ」
「へんだよね。止まらないんだ」
 シンジは自嘲気味に言う。アスカはそっとシンジの手に自分の手を重ねた。そして気がついた。シンジの手もカタカタと震えていたのだ。
「おかしくないわ。怖くてもそれは当たり前の事よ」
 当たり前のことを言ってる、とアスカは思った。そして、それが何ら意味のない言葉だと言うことも。
「レイ?」
 シンジが呼びかける。だが返事はない。こんな状態で寝てるっておかしい。そのことにようやく気がついたのだ。まさかショックで気を失っている?
「レイ」
 先ほどより力を込めて呼びかけるが返事はなかった。無理して自分の足下の方を見る。首の痛みをこらえてレイが横たわっている方へと視線を二人が飛ばしても、やはり彼女は先ほどのままだった。目を閉じたまま、口から少しだけ漏れる息と上下する胸が生きている唯一の証拠に見えた。だが、この状況下でただ寝ているだけというのは、誰だろうと奇妙に感じるだろう。
 シンジは腹這いのまま、白いシャツを黒く汚しながらレイに近づいていった。
「レイ」
 もう一度呼びかけるが、やはり返事はない。体を揺すってみる。だが、何の反応も返ってこない。シンジは自身の保身と同じくらいにレイの状態が怖くなった。もう一度体を揺すってみるが、先ほどよりも無意識のうちに力がこもっていた。
「やめなさい」
 アスカが小さく静かに、だが抵抗しがたい力のこもった声でシンジを諭した。シンジも声で目を覚ましたように、レイの体を揺さぶるのをやめた。
「ごめん……」
「私に謝ってもどうしようもないでしょ」
 シンジはアスカの方を見て、次の瞬間、違和感を感じた。何かおかしい、と思った。
 もう一度レイの顔を見る。次に自分の視覚を疑ってみる。
「アスカ……レイが」
「どうしたのよ」
「何だかおかしいんだ」
「だからなにが?」
 アスカがイライラしたように低い声を出す。彼女はレイの方を見ないまま自分の顔の下のコンクリートを見つめていた。
「気のせいかも知れないけど……」躊躇いがちにシンジは言った。それは普通ではありえない事に違いないのだ。シンジは完全に自分の思ったことを確証持っていたわけではない。だが、彼は淀みなくアスカに自分の見たままを伝えたのである。
「レイが光って見えるんだ」










 それは影だった。3つの動く影。人の形をした闇であった。
 ほとんど音もないままに、彼らは滑るように移動することを止めようとはしない。いや、止めるわけにはいかなかった。彼らの目は猫ほどでないにしても、常人以上に夜目が利くのは疑いようもない。シンジならば、必ず頭なり腕なり壁かそこらにぶつけていただろう。だが、クラーク達は明るくても難しい速度を落とさない進撃を易々と行っている。
 先頭は交代で入れ替わっている。クラークが先頭の時、彼らは2階と3階の、階段の踊り場の位置まで進んできていた。何かに導かれるように彼らはシンジ達に近づいていたのだ。迷うことなく、屋上への最短ルートを進もうとしていた。
 だが、3階へ足を進めようとしたとき、突如として階段中に白煙が舞い上がった。煙などという生やさしいものではない。自分の手さえ見えないのでは、と思われるほどに空気中の粒子濃度は以上に高くなっている。
「消化器か」クラークは声には出さなかったが、何が起こったのか理解していた。学校という場所に置かれていて簡単にこのような状態を作り出せる装置は消化器をおいて他にない。おそらく、何者かが意図的に消化器を改造し、一瞬で白煙の世界を作り出したのだと推測したが、それは正しいだろう。なぜなら、中身として使われていたのは、明らかに市販の小麦粉だったからである。元々あった化学物質はきれいに抜かれていたが、これは効果的で悪魔的な入れ替えである。元々燃えにくい物質をわざわざ引火しやすい乾燥穀物の粉末に入れ替えたのだから。
 3人とも反射で体を低くかがめ、各々が距離を取って次の攻撃に備えた。1ヶ所に固まっては、手榴弾の1つでも投げ込まれれば全てが終わってしまう。
『クラーク少佐以下シリウスのメンバーに告げる。抵抗は止めて武装解除に応じろ』
 声がした瞬間に3人の銃口が向くが、半瞬おいて彼らは発砲する愚を悟った。音の出所は視界の悪いこの場所のどこかに仕掛けられたスピーカーだったからだ。無意味な発砲は、同時に自分の位置を相手に教えることにもなる。わざわざ開いての標的になる必要はないことだった。と、同時にクラークは答えを待っていることも知っていた。相手はこの近くか、もしくはそれに準じる場所で自分たちを監視しているだろう。安っぽい罠にかかってしまったことは痛恨であるが、むやみに銃は使えないのだ。
 今、鉄の固まりが火を噴けば、その炎はたちまち自分たちを被っている粒子の1つ1つに引火するだろう。炎の速度はまさに刹那的であって、火気が使用された瞬間に大爆発が起こるのだ。それが、最も恐ろしく、今では3人の手には銃器の変わりにサバイバルナイフと投げ専用のナイフが握られている。
「聞き覚えのある声だな」
 クラークは時間を稼ぐためにわざと応じることにした。だが、彼の言葉に嘘はない。返答は、彼の知った声の所有者が自分たちと向き合っていることを知った為でもあった。
「確か8年前だ。ヨーロッパ、バルカン半島。違うか?」
 空気の流れが変わった。部下の1人が動いたのだ。白い世界が辺りを被っているが、ゴーグルのゴーグルとしての働きを取り戻させている。つまり、張り付けられた電子パネルの薄膜を剥ぎ捨てて、ガラスの部分だけを使用していた。もちろん、これは銃撃にも耐えられる強化ガラスである。だが、ゴーグルは無事でも人間の肉体がやられてしまうことのほうが多いのだが。
「あの時ゲリラ掃討部隊に参加していた唯一の日本人がいた。RK。君だ。五体満足で生存した3人の中の1人だ」
『正解。少佐こそ3人のうちの1人だろう。人ごとみたいに言ってくれるじゃないか』
 スピーカーからの声はどこまでが本気なのか判りかねるような、まるで緊張感とは別世界に暮らす誰かの声のようにも聞こえる。だが、クラークは知悉している。RKと呼ばれた加持リョウジ、彼がどのような男であるかを。
「こんなところで再開するとは思わなかったな。その様子ではまたジャーナリストになり損ねたようだな」
 ドサッ。
 クラークは左右の壁に背を着けて、角で身構えた。
『お陰様でね、あんた達みたいなのがいなくならないからだよ。ところで、武装解除と全面降伏に応じる気は無いかもう一度訊こう』
「ない」
 また白い気流が生まれる。もう1人残っていた兵士も階上へと駆け上がっていった。3階の廊下に出てしまえば、ある程度どうにでもなる。ただ、それが相手側の監視の元での行動であることは疑いようもなく事実だった。
『即答だが当然だな、あんたは拒否できる立場にない』
 しばらく時をおいて、クラークもまた駆け上がった。ある予想が成り立っている。このような状況下では、無言でも対処できるように不文律とも言うべきマニュアルみたいなものがある。誰も破ろうとしないのは、それが一番生存の確率を高めてくれる、誰かの経験の元に作成されてきた実戦における手本であるからだ。だが、これが仇になることもある。
「ところでRK。君がこの場所にいるという事は、目的は私達ではあるまい」
『答える義務はないね』
 今度はスピーカーの声が逆に即答する。
 階段を壁伝いに進むクラークの視界が少し明るくなる。白さが増したのではなかった。3階ではライトが灯っていたのだ。蛍光灯が存在意義を示すかのように、闇を片隅へと追いやっている。
「私にすら感取られることのないカメラとトラップの配置は、世界中を探しても君にしかできまい」
 窓が開けられた音がした。穏やかな風が、舞い踊る白い粉を乗せて横にスライドしていく。
 彼は立っていた。黒いスラックスも髪も白く染まってはいたが、頭に装着するヘッドホン式通信用装置を右手で弄んでいた姿は、8年前の記憶の中の男と完全に一致する。人をあざけるようにも見える笑いを口の端に乗せ、加持リョウジはクラークの前に立っていた。クラークの前には、粉が風に流されて姿を現した彼らの部下の姿が見えた。1人は首があり得ない角度に曲がっており、1人は胸を押さえて倒れている。おそらく、昔と同じ手法ならば肋骨を手で折って、それを肺か心臓に突き刺したのだろう。マスクの下から僅かに血が漏れている。
「やれやれ、人殺しは趣味じゃないんだが」
 今度は肉声が、クラークの耳に届いた。倒れている2人はまだかろうじて息があったが、何時事切れてもおかしくない状態である。
「撮るほうが専門だとでも言いたげだな」
 クラークは、8年前の戦友と向かい合った。日本の、夜の中学校で、大人の男2人が銃と刃物を持って向き合っている。それは、異常な状況下での再開であった。
「さて、お前が直接姿を見せたという事は私に用があるということか」
 お前は相手に姿を見せないのが基本だからな、と記憶の中のスタイルで彼を語るクラーク。加持は肩をすくめたのみで、肯定もしなかったし否定もしなかった。
「俺の要求は、速やかにこの場所から立ち去ることだ。子供達は渡さない」
 説得できるつもりは毛頭なかった加持だったが、それでもなるべく楽をしたかったというのが本音から、敗北感を味わわせて抵抗なく事態を収拾したかった。
「断ると言ったら?」
 だが、クラークが言い終わるよりも早く、彼の側頭部に冷たい鉄の感触が触れた。ちらりと横目で見れば、若い女性が拳銃を彼の頭に突きつけていた。おそらく、身じろぎしただけで殺されるだろう。それほどまでに、彼女の目には私情がない。あったとしても、行動を制約したりはしない。目を見ればわかるのだ。相手がどれほどの人間かは。クラークも加持も、そして銃を突きつけている女性も。
「別行動のオペレーター達には先に眠ってもらったわ」
「紹介しておこう。元アメリカロサンジェルス警察特殊機動隊部隊長葛城ミサトだ。MITを十代で卒業した犯罪心理学の専門家でもある」
「噂には聞いている。対テロ特殊部隊の中でも屈指の切れ者だったと」
 ミサトは射線軸をまったく動かさずに、視線だけ加持の方へ向ける。加持の心臓が一回大きく飛び跳ねたほどに苛烈な目をしていた。昔のことだとミサトの目は無言で語っている。生徒達にも教職員達にも見せたことのない貌の葛城ミサトがそこにいた。
「さて、我々の優勢が決まったところで早速なのだが」加持はヘッドセットを首に引っかけると、クラークの飛びかかれないギリギリの所に立った。「出してもらおう」
「何を?」
 そう尋ねたのはミサトだった。短く抑揚がない。
 ニヤリ、と加持は笑った。何度この笑い方を見てきたことだろう、とミサトは思った。嬉しく思ったことも哀しく思ったこともあった。だが、今はそれを思い出すだけで無性に体が熱くなる。怒りにまかせて引き金を引いてしまいそうになるのを理性がすんでの所でせき止めていた。
「オリハルコン」
 男2人が表情を変えないのに対し、ミサトだけが耳慣れない単語に顔を曇らせていた。










「寝言は寝てる時に言いなさいよ」と言ったアスカではあったが、シンジの言葉の真偽を確かめる前にレイの姿を見て我が目を疑ってしまった。
 シンジとレイの顔を何度も往復させて自分の腕をつねってみた。もちろん痛みが走る。自分が色盲になったのでも頭がおかしくなったのでも、まして夢を見ているのでもないことを確認すると、不思議にレイに見とれてしまった。目が離せなくなっていたのだ。アスカには見えていないが、シンジも同じようにレイから目を離せないでいた。
 レイが白くほのかに、だが確実に光を出していたのである。まるで光る微粒子が彼女の体から滲み出ているかのようにも見えた。その僅かな発色がレイの白い肌をより一層白く見せ、冷凍下に置かれた仮死の人間の肌の色を思わせて、シンジをゾッとさせた。だが、美しかったのである。音もなく彼女を包む光は、ごく微かにではあるが、着実にその量を増大させていた。時をおうごとにレイはますます青白い光に包まれていく。
 光がダンスしているみたい……。そうアスカは思った。
シンジの脳裏をふとよぎったのはルネサンス以前のヨーロッパの画家が描き続けたキリスト教世界の絵画だった。彼らの描いた絵の聖母や聖人達には必ずといっていいほど光が描かれていた。
 昔の人も、今のレイみたいな人がいて、それを見て描いたのかなぁ。漠然と思う。
 シンジはレイの顔を見つめながら、なにかがどこかで鳴っているような音を聞いた気がした。なにかが共鳴しているような音だった。気のせいかな、と思ったとき、今度は先ほどよりはっきりと聞こえた。
 ヒィィィィィィィン。
 音叉の音よりも澄んでいる、とても心地のいい音色を奏でる何かがシンジの鼓膜をくすぐってやまない。
 その音に呼応するようにレイを包む光も静かに強さを増す。あまりの神々しさに自分の姿が酷く濁ったものに見えた気がした。
「これじゃまるで……」
 シンジは思った。
「天使じゃないか」
 心の中だけで言ったつもりが口をついてアスカへ届く。だが、彼女もぼんやりと頷いたのだった。
 背中に羽がないだけ。純白の翼がないだけで、光だけはまだ彼女を被っている。そんな思いに2人はとらわれる。あまりの現実離れした光景に、彼らはそれ以外の出来事を考える余裕を無くしていた。
 心が洗われていくような光景の外では、意外な報告が城山の元に届けられていた。










 城山に報告をした隊員の声はうわずっており、顔も引きつっていた。
 だが城山はそれを咎める気にもならなかった。それほどまでに報告の内容が常軌を逸していたのである。だれもがそんな馬鹿な、と言いたくなる数値を計器類は観測していたのである。
「ハードの故障もソフトのバグでもないのだな?」
 城山の声は一層低いものになっている。竹中は彼と向き合って姿勢を正した。
「ハッ、全ての計器類は正常に作動しています。長野のメインフレームも現在の所、まだオーバーフローは起こしておりません」
「君はどう思う?」
「正直、信じられません」
「だろうな」城山は失望した様子もなく、そう言った。「私だってにわかには信じられんよ」
「しかし、それほどのエネルギーが観測されたというのに、あの学校は何ともありません」
 竹中の顔には汗が浮かぶ。
「そうだ。リアクターが暴走したってこれほどのエネルギーは発生しない。これだけのエネルギーが熱量に変換されていたとしたら、この周辺、いやこの第3新東京市がまるまる吹き飛んでいても不思議ではない。下手すれば日本全土だってタダではすまん」
 竹中は混乱しそうな頭を抱えて頷くのみである。何ら事実をとらえた意見を言うこともできず、彼は青ざめることしかできなかった。
「これからどうすればよいのでしょうか」
 城山は報告書を握りつぶして立ち上がった。
「待つことだ。今となっては手出しできない」
 モニターを見れば、なにやら屋上のほうがぼんやりと明るい。だが、報告にあったエネルギーの発生地点はその真下の3階部分である。屋上にいる3人の生徒の姿が確認されていた。それを守るために、スナイパーを各所に配置させるよう指示を出したばかりだった。
 未だに、学校からの合図はない。
 ミサトが指示した回線は、まだ沈黙を守っている。










「オリハルコン」
 加持が河原で拾った石を出せ、と同じ口調で冗談を言ったとしてもまったく自然だっただろう。だが、彼の口からでてきた固有名詞は、葛城ミサトのなかでは本やテレビのなかでしか聞いたことがない名前だった。
 何の冗談よ、と言おうとしたミサトに加持は続けていった。
「人間以上の存在が作り出した、最も堅く、最も蒼い、魂の連なり。別名『賢者の石』とも呼ばれた宝石のコピーだ。天におわしたもう神が起こしたる最大の奇跡」
「そして、100年以上前に突如として消えた神の舟における唯一の未解析部分」
 クラークがそう言った。
「それがないと全てが動き出さない」
「つまり、渡すわけにはいかない、という事だ」
 ニヤリとクラークは笑う。加持の笑いとそれはよく似ていた。まだ世間では若造と呼ばれる年齢のくせに老成して見える加持と同様の、どこか笑いを引き起こす原因が遠く暗いところから来ているような。
「しかし、あんたほどの男が迂闊だったな」
「何がだ?」クラークは目と唇以外、まったく動かさない。
 ミサトはもはや黙り込むことを決めていたが、目の前の男のどこか機械じみた口調や立ち振る舞いを見るにつけ、喉の奥から嫌悪感がせり上がってくるのを感じていた。指をぴくりと動かさないのが良い例だろう。
 加持がタバコを胸元から取りだしたが、ミサトに睨まれたので申し訳なさそうに元の場所に戻すとクラークに向き直った。学校の中で吸わないで、とミサトの目は口ほどにものを言っている。
「まず状況をよく調査してから行動するクラーク少佐ともあろうお方が、ここに俺がいるのを知らなかったようだからな」
「知っていたさ。初めからな」
「……何?」
「まだ判らないのか?」
 クラークの饒舌さに奇妙な違和感を覚えたのは加持だけではなかった。ミサトの背中を今までで感じたことがないような悪寒が走った。
 それはクラークの、横顔からでも見えてしまった彼の目のせいなのだ。暗く陰湿な光が余計に闇を増しているように見える。テレビ越しでは判らなかった、生きたクラーク少佐という軍人を目の前にして、彼女は自分が蛙になったような気がした。そう、蛇に睨まれたようなカエルに。
 加持の声から余分なものが消え去った。余裕が、である。戦場の中で長い時を過ごした男の貌がとってかわった。
「私はお前がこの街に潜入したのを知ったときから、お前が私達の前に立ちふさがるであろう事くらいとっくに見破っていたさ」
 クラークは初めて顔を少しあげた。どこか遠くを見るような目に変わる。
「RK。君は情報収集とその処理にかけては世界でも五指には入るだろう。戦士としても水準以上の基準値を持っている。だが、欠点もある。いつもいつも詰めが甘いことだ」
「俺が日本人だから、とか言う気じゃないだろうな。ま、否定もしないが」
 自嘲気味な形に口元が歪む加持。
「君は私達を全滅させるべきだったのだ。そうしなければならなかったのだ」
 ミサトの腕がカタカタと上下に揺れる。手が少しでも滑ってしまえば、銃弾が右から左へと自分の頭を突き抜けてしまう。そんなことは重々承知しているはずのクラーク。だが、彼のほうが優位に立っている人間のようにも見えた。ミサトは、その常識はずれした剛毅さに震えていた。味わったことのない気味の悪い恐怖が彼女を襲っているのだ。加持はそれを横目で冷たく眺めている。ようにみも見える。
「私達を生きて捉えようとするから時間がかかってしまうのだ。だから、君たちはミスを犯すことになるのだよ。いや、もう犯した、と言うべきか」
「誤魔化さないで! オリハルコンだろうと何だろうと知った事じゃないわ! あるならさっさと出しなさい! そして早くここから出ていって!」
 ミサトが彼のこれ以上の言葉を聞くことを拒否するかのように、半絶叫で言った。
「そうだったな。オリハルコンだ。これは私には扱えない。君たちにもな」
 チラっとミサトに、クラークは一瞬だけ視線を向けた。その瞬間、またミサトの体を何かが貫いた。だが、彼はミサトの反応を確認しただけに過ぎない。そして、胸元に手を差し込み、引き出したときには手に何かを握っていた。
 彼の手からはボロボロの布きれが現れた。左手に持ち替え、右手でそっと幾重にも巻き付かれた茶色い布をはぎ取っていく。そして、徐々に青白く光る何かが彼らをうっすらと照らし始めた。
 ……これは……共鳴?
 ミサトはその光が人間の鼓動と同じリズムで光っていることに気がついた。少しだけ強くなったと思えば、すぐに弱々しく光る。その繰り返しだった。光の強弱にミサトの心音が重なる。
 ドクンドクンドクンドクンドクン
「私には扱えない。だが、この学校にはこれを操る資格を持った人間が4人もいる。見ろ、この輝きを。もうすぐ一番強く光り輝くときがやってくるだろう」
 ミサトも加持も奇妙に思った。クラークは晴れ晴れとした感じすら漂わせながら喋っている。
 まるで、遺言を読み上げているかのように。
「この鼓動を見ろ。魂の連なりだと誰でも信じたくなるだろう。この光を構成する全てがヒトという特殊な種の、精神の残り香の集まりなのだ」
 次の言葉を聞いた時、ミサトの疑惑は確信へと昇華した。
「RK。そして勇敢な女性にも訊こう。君たちはココを戦場だと思うか?」
 クラークは死を望んでいると。そして、その場所は戦士として生きた証である戦場でなければならないと。
 ミサトも加持もなにも言わなかった。いや、言えなかった。ミサトは肯定してしまった後の事を想像するのも怖くて口が動かない。加持の方は肯定すれば、未だにクラークと同じ側に立ってしまうのではないかと、一瞬防御心理が働いたためであった。俺はジャーナリストに戻ったんだ、と加持は心の中で小さく唱えた。
「……4人? ……まさか!」
 加持が顔をゆがめて呻いた。加持が考えていた該当者の中で、思い当たった最後の人物は彼にとっても少し意外だった。
 加持の脳が各神経に筋肉へ行動の電気信号を送るよりも早く、息をする彫刻だったクラークが突然身をよじって射線軸から避けると、ミサトが反応するよりもはやくに彼女の手をねじり挙げていた。加持もさすがに不意をつかれたらしく、とっさに腰のあたりから銃を引き抜いたのが精一杯だった。
 ミサトが痛みのあまり悲鳴を上げるが、クラークは無表情のまま手の力をさらに強めた。
 ガシャン、と重たげな音を響かせて、ミサトの手から黒く光る鉄の塊がこぼれ落ちた。片手でミサトの腕後とねじりながら後ろに回ると、脈動のように光る石をそっと空に浮かべるような動きを見せる。
 まさか、と加持が思うよりも早く、オリハルコンと呼ばれた光る石はすっと滑るように中に浮いた。目の高さ程度で停止したオリハルコンの輝きは、こんな場所、こんな状況でなければ相当神秘的だっただろう。
「さあ、見ろ。この輝きが限界に近づいた時、私の長い旅も終わる」
 もはやクラークは誰にも話しかけていなかった。声を出して、加持の顔を見ながら、ミサトをねじりあげて遺言ともとれる独り言を言っていたのだ。いまいましげに見上げたミサトがクラークの半分虚ろになった目を見て、今日何度目かの悪寒を感じたのも無理はなかった。彼は、完全に青白いオリハルコンの輝きに飲まれていた。
 クラークの言葉が合図だったかのように、オリハルコンは光の度合いを強めていった。

 ドクン ドクン ドクン ドクン ドクン ドクン

 いつのまにか、そこだけが昼間だったかのように煌煌と光るオリハルコン。まぶしさの余り目を開けていられない。ミサトはグッと目を閉じようとした。だが、瞼を閉じてみても光が強すぎて、瞼越しに光るオリハルコンが見えるのだ。
「葛城、すまん」
 加持の声がした。ミサトは目を閉じたまま動きが取れなかった。ドン、と軽い衝撃の後に囚われていた左腕が開放されて、不意にからだが軽くなる。加持がクラークに体当たりしたのだろう。だが、クラークは既に意識の殆どを飲み込まれてしまったらしく、反撃してこない。ミサトの見てないところで、彼は2・3歩よろけただけだったが、加持は機敏に次の動作を行っていた。
 ミサトは開放の数瞬後、腹部に強い衝撃を感じた。加持の左のこぶしが彼女の腹にめり込んでいる。
 何故、と言う形でミサトの口は動くが声帯は所有者を裏切って動かない。
「すまん」
 もう一度だけ加持の声が聞こえた。そう思っただけなのかもしれない。あるいは夢の中だったのかもしれなかった。
「な…に……?」
 痛みは不思議とほとんど感じなかった。それどころか、意識が途切れる直前に、ミサトはフワリと自分の体が軽くなった感覚が全身を優しく包んでいたのだった。




Next | Back | Index | B.B.S. | Top

御意見・誤字脱字情報・感想をお待ちしております。
Form or masadai@enjoy.ne.jp


“新世紀エヴァンゲリオン”はGAINAX(c)の作品です
作品の一部及び全ては引用・転載・配布等の行為は無断ではできません
作者の許可が必要となりますのでご注意ください