ガチャ。
 それはドアノブが回った音。
 その音は実際よりも大きい音量でシンジの耳に届いた。もちろん錯覚ではあるが、レイから目が離せなかったシンジとアスカを現実へ引き戻すには十分な音量であった。
 シンジは一瞬混乱してしまう。レイの体が光を放っているのだから、あっという間に見つかってしまう。すぐ下には誰かが扉を開けようとしているが、開けてしまえば非常口の上の方でほんわりと光るレイに気がつくのは自明の事だと思えた。慌ててレイの体を隠そうとするが、なにか被せるにしてもなにも付近に落ちていない。自分を使ってさえぎるには明るすぎた。
 シンジがそれでも影になろうと扉のある方へ移動する。アスカもそれに倣って、ささやかな人の壁を形成した。
 しかし、彼らの努力とは裏腹にレイは突如として光の強さを増した。シンジたちは知らないが、それは階下でオリハルコンが一段と強く輝きをましたのと同時だった。シンジの顔は絶望の色が強く塗りたくられ、アスカは憮然として扉から出てくるであろう人物の出現場所を睨み付けている。
 カツン。乾いた音が聞こえてくる。革靴とコンクリートがぶつかり合った嫌な音。無理にでも存在を主張させているようなその音がとても不快感を刺激した。
 カツン。
 わざとなのか、歩くスピードはやたらと遅い。だが、同時に変だな、とも思うアスカ。普通、兵士って気がつかないうちに背後に回りこんでるものなのに。知らないうちに彼女も体の芯から沸きあがってくるような、何とも言い難い感覚につかまっていた。だが、溢れ出すような感覚ではなかった。
 ナニ、コレ? イッタイコレハナニ……?
 シンジが隣で体を強張らせた。遂に、アスカの目にも誰かはわからない人物が映っている。
「久しぶりだね、碇シンジ君」
「えっ、」
 言ってしまってから、声を出した迂闊さを呪ったのはアスカのほうだった。驚いてシンジを見るが、シンジは驚いて声も出なかったようだった。
「まさか……」
 シンジの語尾が震えている。怖いからなのか、驚きからなのかは判断できないアスカ。
 聞き覚えがある声だった。それも、かなり昔に聞いたというわけでもない。ごく最近、それもこんな風に日常とかけ離れたような状況下で、彼は前も笑っていた。
 その男は前とまったく同じ、冷たく嘲り笑う笑みを浮かべてシンジたちの方へと振り返った。レイの光は一層明るい。その光が彼の顔を照らし出していた。
「さあ、第二幕のはじまりだ」
 前といっしょだ。あの時といっしょだ。この声、この感じ、このいやな感じが。レイが黙って出ていこうとしたあのときと何も変わってない。
 シンジの心を冷たいものが触れたように、彼は訳もなく息苦しさを感じた。
 今、傍には頼れると再確認した父親はいないのだ。誰も守ってくれない。
 ミサトがいない。リツコも、マコトもシゲルもマヤも。あの無精髭を生やした加持という男もいない。
 アスカは言いしれぬ雰囲気に気圧されてしまったのか、レイの頭の辺りまで退いていた。
「私を忘れたわけではないだろう?」
 その男は楽しそうにそう言い、シンジはジリっと後ろに下がる。
 その時、軽くレイの体に触れた。気がつけば、シンジの体もレイの淡い光に体を浸していた。色だけ見れば冷たく、そしてその発光の仕方を見れば熱いのかと思ってしまう。だが、シンジは違う感想を抱いた。突然、安堵が心にうまれたのだ。なぜか、この光のもとでは落ち着けた。心臓が平常時の回数にまで脈を落としてくれる。
 シンジはレイのほうを振り返った。彼女の顔には何の感情もなかった。ただ、眠っているように見える。だが、それも破られた。
 レイの量の瞼が、ゆっくりと開いていったのである。
「レイ?」
 呼びかけたシンジはこの日一番の驚きを味わう事になった。息を飲み、いや、息を止めていることに気がついていない。額にはじっとりと汗が流れている。手の中の汗を気持ち悪く感じながらも、それをふき取る事を忘れてしまったシンジがそこにいた。
 シンジの視線の先にあるレイの半分開かれた両目。まだぼやけて寝たりないような目つきの奥にあった双眸は、いつもの落ち葉と同じ茶色ではなくどこまでも限りないかのような深紅だった。










 理化準備室という名をしたコンピューターの城は沈黙に包まれてしばらくが経つ。ミサトが出ていってからもかなりの時間が経った。そして、何故かわからないうちに加持がクラーク少佐とかち合った地点のカメラが異常をきたしてしまって、映像も音声も確認する事ができずにいたために、余計な重たさが室内の空気の重量を増している。
 が、それは唐突に破られるものなのだ。現に、いつまでもその重たさは続かなかった。
 待機モードのMAGIが、マコトの前で青から赤い色へと切り替わった。それと同時に、全員の前にあるモニターが注意と勧告を呼びかけるアラームをいっせいに作動させた。
「何だ!?」
 とっさのことでシゲルの声が裏返る。
「現状確認を最優先! 対応は追って指示します。急いで!」
 リツコの冷静な声が3人を射抜き、マコトとシゲルはキーに飛びつき、マヤはキーを叩きながらリツコに問い返した。
「これはいったい……」
「多分……」
 マコトがリツコの声を遮って、自分の声を優先させた。
「攻撃です! ハッキング元は……ハ、HALです。まだ生きていやがった!」
「防御壁を展開。15番から35番までの淡白壁も使って」
 リツコは遅い、と思った。HALの生命力を侮っていた自分の迂闊さも同時に呪った。世界屈指と謳われるコンピューターである。橋頭堡を足がかりに使ったとはいえ、いとも簡単に落ちるわけはないのである。相当に時間がかかって当たり前なのだ。例え、リツコとマヤの強力なウィルスと技術をもってしたとしても。
 リツコは受けに回ってしまったことで不利を感じていた。対応が後手にまわっては遅すぎる。
「駄目です、突破されました。相手は直接通した回線及び外部全方向からの回線で攻撃してきます!」
「先輩、どう言う事ですか?」
 マヤがリツコを見上げた。マヤはタイルの上に座り込んだ状態で、コードの中に埋もれるようにしてノートパソコンを使っている。
「無駄を省いた、って事よ。恐らく、実地部隊である『シリウス』が無くなってしまったのに気がついたHALの本当の管理者達が報復をかけて来た、と見るべきでしょうね。要らない機能を全て省き、持てる力を全部私たちにぶつけてきている」
「くそっ、擬似エントリーも第8層まで回避もしくは突破されています。最終擬似エントリー接触まで45!」
 マコトの前ではモニターに地層のようなものが表示されているが、地層ではないという証明は数字が層ごとに描かれていた事だろう。そして、第8と書かれたところまで、掘削したように太い穴が貫き通っていた。層全体は27まである。だが、全部突破されるまで時間の問題であろう。
「先輩!」
「………」
 リツコは唇で右の人差し指を軽く噛んだ。口紅がついてしまうが、気にはしない。
「でも変ですよ。私達が乗っ取ったHALは未だに沈黙したままです」
 マヤが言ったとおり、先ほど簡単すぎるほどに倒したはずのHALはモニターに「SILENT」のまま映し出されている。所在地はアメリカ合衆国内の東海岸沿いの、小さな街であった。だが、そこは恐らく巨大な組織が長年秘密裏に作り上げたハイテク機器の固まりに違いないのだ。
「ダミーだったんでしょうか?」
 シゲルが思いつきをそのまま口に出していった。リツコは眉間にしわを寄せたまま頷く。
「恐らくHALは2機あるんでしょう。私達が倒したと思ったのは、恐らくネットワーク専用機なんでしょう。今攻撃を仕掛けてきているマシンをアルファとすると、アルファとネットワーク機ベータは強いパイプで繋がっている。そして、私達が攻撃を仕掛けた時にそのラインを一時不通状態にしたんでしょうね。アルファはベータの数倍の処理を行えるマシン。それがHALというコンピューターなんでしょう」
「赤木先生、そんなこと言ってる場合じゃないです! 状況分析はあとでいいですから、こっち何とかして下さい!」
 マコトが情けない声で情けないことを言った。確かに彼とシゲルだけではどうにかなるような、生半可な攻撃力ではなかった。
「く、主データベース層に侵入されました。データを凄い勢いで読んでます」
「MAGI本体と接触! こちら側がジリジリと浸食されています」
「相手側の放ったウィルスが全回線より侵入。撃退で30%防御力が低下」
 マコトとシゲルは交互に不利なことばかりを報告するが、致し方のないことだった。考えられる限りの手を使ってみるが、ことごとくHALに跳ね返されるか回避される。以前は分散して襲いかかってきた波のような感じだったが、今回はまとまった水の束がドスンドスンと何度も何度も波状攻撃してきているような感じだった。突かれる度に浸食部が大きくなる。
「ロジックモードを変更! 毎秒3ミクロンまで落として!!」
 リツコが目覚めたように言うと、即座に三人は反応した。高回転で動いていたエンジンのアクセルを緩めたときのような音がして、部屋の中で響いていた小さな音がさらに小さくなった。同時に、蝉が鳴いていたような甲高い音も、各自の聴覚から消える。
「ふぅ……」シゲルが一際大きな溜息をついた。「HALの進行速度が20分の1までおさまりました」
「あとどれくらい持ちそう?」
「約15分ですね」
「あまり満足な時間はないわね……。マヤ、相手側の本拠地は掴めた?」
「いえ、それがさっぱり……」
 申し訳なさそうに首を横に振るマヤ。
「そう。相手が全てをこちらに注いできたからには、こちらも全力で相手をすべきでしょうね」
「は?」
 マコトとシゲルはお互いを見合った。いずれも不思議そうな顔をしている。リツコの言った意味がよくわからなかったのだ。全力で相手って、今までそうだったじゃないのか? 余力があるようには思えない。不信そうな仮面の下に、そういった本音が見え隠れしていた。しかし、リツコもそれだけでは十分な説明になってないことを知っていた。
「MAGIは3機存在するのよ…。バルタザール、メルキオール、カスパーと。現在はバルタザールのみ稼働しているの」
「じゃあ、今までたった一つだけで!?」
「ええ。メルキオールはこの街のコントロールに、カスパーはある場所で普段の業務処理を行っているわ」
 身を乗り出したマコト。彼のメガネが半分ずり落ちていたが、本人も気が付かなかったし、隣にいた青葉シゲルもわかってはいたが指摘したりする心の余裕がなかった。
「でも、もう、そうとも言っていられる事態ではなくなった以上、こちらもそれ相応の戦力で一気に片づけるしかないわ」
 リツコは淡々と説明するが、ほかの3人はまだ驚きを隠せない。額から冷や汗が浮かんでくる。それも、本人が嫌がるような冷たく寒い感触をもたらす汗だった。
 バルタザールだけで、世界でもっとも強固な防御壁の一つといわれるAダナン型防壁を浸食し、ついには突破した。世界中をコントロールしていたネットワークをそのまま乗っ取った。一時期とはいえど、HALも支配下におくことができた。
「先輩、それで勝てるんですか? 相手側よりも性能が高いことはわかっています。でも、相手は有機的に動く2機のコンピューターなんですよ」
「それは心配しなくてもいいわ。元々、MAGIとはわざと人間のジレンマを残してあるシステムのことなのよ。3機をあわせてMAGIと呼ぶのは、バルタザール以下3機が独自に稼働しつつ、おのおのが補完しあい、決断を下す事ができるから。1台の巨大なコンピューターだと思ってもいいの」
「じゃあ、今まではその巨大な機能の一部分のみを使っていた、って訳ですか」
「青葉君の言うとおりでもあるし、そうではないともいえるわ。それがMAGIというシステムなのよ」
 3人は気が付かなかった。リツコの声の中にはごく僅かに苦みの微粒子が混じっていることに。
「10分後に再攻撃をかけます。今度はHALを完全に支配を目標とし、相手側の隠された戦力もすべて解析の後に侵入。と同時に、HALの所在地を突き止め、そこまでのエネルギー供給地を完全に停止させて、電子、物理の両面から攻撃して相手のすべてを動作不能に追い込みます。いいわね?」
 3人は驚きを信望の目つきに変えて、否もなく頷いたのであった。
 だが、この基本方針を作り上げたのはリツコではない。彼女は親友が短い時間で作った計画書に乗っ取ったにすぎず、リツコ自身は運用面と自分の手には負えない部分を補う3人の管理をしていただけである。マコトやシゲルは悲鳴を上げているが、リツコは有に彼らの10倍近い量を相手にしており、常に攻撃と防御の両面を行っていたのである。回避したり、リツコが漏らした一部がマコトやシゲルの元に回ってきているだけだった。だが、彼女はそれを言っていない。言わなくていいことだと思っているし、言う気もなかった。
 リツコの明晰な頭脳の中で、記憶を司る部分には膨大な数の言葉や人の作り出した表情が、研究資料や数式と同じくらいストックされている。その中で、基本方針を打ち出した人物の顔は永遠に残るだろう。
 それは葛城ミサトなのだ。
 ミサトは支配のみで終わらず、完全に再起不能にすべきだと訴えた。それに従ってリツコは動いている。だが、そう言ったときのミサトの顔は、完全に教師のものではなかった。
 リツコの知るミサトの一時代。7年前。彼女が最も華やかで輝いていた時だった。だが、それは表面上の事でしかない。内部を見たものはごく少数であったが、一様にその人たちは知っている。ミサトが最も殺伐とした雰囲気を放っていた時代であったことも、人とつきあうことを苦痛に思っていたことも。
 MAGI3機同時使用のプロテクトを解除して、リツコは一息ついた。そのときに、ミサトが残していった飲みかけのコーヒーとカップに手を伸ばした。すっかり冷めてしまっていた。
 似ている、と何となく思ったリツコ。その構図がなんとなく、今のミサトに覆い被さって見えた。
 一度冷めてしまった飲み物は、また暖めることができないのかしらね。
 リツコはフッと口元をほころばせたので、隣のマヤが不審がった。何でもないのよ、と答えておいて、自分の考えの浅はかさが恨めしくさえあった。
 冷めた液体が暖められることを拒否してるんだから、できるわけないわ。
 ディスプレイの光が照り返すリツコの顔はどこか遠くを見たあとのような、虚無に近い表情が残った。しかし、手は動き続けているし、続きも考えようとしている。だが、彼女にしては珍しく、心の中でさえ続きを言葉にできなかった。
 彼女もまた、コーヒーが熱を持つことを望んでいないからであった。










 レイが操られたマリオネットのように、自分の意志以外の力で立ち上がった。ように、アスカの目には映った。双眸には紅い光が強く輝いているように見えるが、その中に意志の存在を見いだすことはできない。それはシンジも同じだった。
 そこには、シンジの知らない別のレイがいた。相変わらず全身が淡く光を放ち、生気を得た彫刻が動いているような神々しささえあった。
 それを楽しそうに見ていた人物がいる。先ほどの、ダークグレーのスーツを隙なく着こなした男。そうなることが当然と言わんばかりの視線をレイに向けていた。
「君たちとゆっくりとお喋りしていたいのだが、時間がそれを許してくれないのでね。悪いんだが、私と一緒に来てもらおう」
 時間が押している、と言ってるくせに全然焦りを感じさせない口調。アスカにはこの男がどこまでふざけていて、どこからが本気なのかよくわからない。加持という男もこんな感じであったが、目の前の人間からは冷たさしか感じない。何となく、生理的に受け付けない拒否反応がアスカの中で着実に大きくなっていた。このサングラスをかけた年齢のよくわからない男には、近寄りたくない、とも思った。
「……嫌よ」
 言ったのはシンジでもアスカでもなかった。彼らの半歩後ろに立つレイだった。ただ、相変わらず自分の力で立っているようには見えない。だが、先ほどと違って、目から虚ろが消えていた。おかげで、一層紅い色が目を引いた。
 血の色と同じだ…。
 シンジもアスカも期せずして同じ感想を抱く。
「……一緒に行く気はないわ」
 声に力強さと闊達さが欠けた、無機質な声。同じ喉からでる声でも、ここまで違うのかと耳を疑ってしまいたくなるような、レイの凍てつく声が男だけでなく、シンジやアスカにも聞こえる。あまりに感情の欠落したその声に、2人とも気味悪さを感じた。そして、悟る。目の前の少女は「綾波レイ」ではない、と。少なくとも、自分たちの知っているレイではない。彼女は瞳は茶色だ。髪の毛は空色をしているが、その色を体から発したりしない。重力に逆らったような、風船のようにふわふわと軽い動きをしたりしない。違う。レイじゃない。
「困ったな。拒否されれば力ずくでも連れていかねばならなくなる。それは私も本意じゃないんだ」
「私はあそこへ戻る気はまったくない。彼らも連れ戻させることも許さない」
 本気でないように言う大の大人に、華奢な少女があがらい難い雰囲気といっしょに冷然と言い放っている。そのアンバランスさを、シンジは奇妙な冷静さで見ていた。今言ったレイの言葉の意味がよくわからなかった。
 彼ら、も? じゃあ、僕やアスカも含まれてるって事?
「ふぅ……。聞き分けのない子供にはお仕置きをしないといけないな。サンプル01。いや、ファースト」
 男の語調が少し変わった。前回感じたことのない奇妙な違和感があっただけに、「あれ?」っと思ったシンジ。
 フゥゥゥゥゥン…
 生暖かい風が、突然凪から疾風に変化する。それと同時に校舎の横から強烈な光を放つ、親指くらいの何かがゆっくりと上がってくるのが見えた。
 オリハルコン。
 その光は、胎動のようにドクンドクンと波打って、まさしく生物の心臓のようであった。レイの淡い光も、それに呼応するように発光が強まったり弱まったりを繰り返す。それは、共鳴だった。光同士が呼応しあって、互いの出会いを喜んでいるかのように光彩を放つ。
 だが、それも長くは続かなかった。
 むせ返るような強烈な空気の固まりが子供たちの周りに集まり、押しつぶすかのように体を締め付けられた。あっという間に身動きがとれなくなったシンジやアスカは何とかしようともがいてみるが、腕はおろか首を動かす自由もなくなっていた。動かそうとすれば、鋭い痛みがその関節を襲ってきた。動かせるのは、瞼や指を僅かに動かすくらいで、喋ることさえままならない。
 しかし、レイはなんとも無いかのように平然としていた。シンジが微かに涙を浮かべながらレイの方をちらりと見た瞬間、自分の身に起こっていた不条理をすべて忘れてしまいそうになった。
 彼女の体からは光が出続けているが、そのさらに外側に金色に光る幾何学的な模様の壁が空気のよどみを防いでいた。空気と戦っていることは、その壁の内側と外側で見える背景のゆがみで認知できた。外側は景色がグニャリと歪んでいたのである。壁は、時には6角形に、時には4角形に模様を変えながら、レイを台風の目の中のように守りきっていた。
「ふん。6角形のフィールドが出せるわけか」
 男がポツリと言う。独白だったのか自分たちに聞かせたのか、シンジには判断がつかなかった。しかし、今の言葉で前回との違いが決定的に判った気がした。同じようにアスカもレイに目を奪われてしまって、自分たちがどうなっているのか興味の範疇の外だった。だが、注意深く観察していれば気が付いただろう。シンジやアスカも、ごく僅かだが、変化があったことに。
「だが、今の状態からすると、まだ40%と言ったところだな。その程度では」彼の顔からいつの間にか消えていた笑みが戻ってきた。一層な禍々しさと嘲笑を随員として。「オリハルコンには逆らえない」
 彼の言葉に応えるようにオリハルコンと呼ばれた、上昇してきた宝石の光が強烈なまでに強くなった。今は男の数メートル前に浮遊しており、今はもう胎動のような光ではなくなっている。辺りを照らすかのように光るオリハルコン自身は、レイの壁よりももっと複雑な模様が浮かび上がっていた。
「うっ…がっ…」
「きゃぁ!」
 シンジとアスカが悲鳴を上げた。体が千切れてしまいそうな圧力が彼らの四肢にかかってきたのである。放っておけば、腕は割り箸のように簡単に折れてしまいそうだった。そんな痛みが体中を襲ってくる。何とか耐えようとしてみるが、体の血管という血管が浮かび上がってくる。目は血走り、痙攣はやまない。最後には、抵抗する思考力さえ奪われてしまう。
 しかし、レイは汗一つかかずに壁で防ぎきっていた。
「……それで終わり?」
「何?」
「なら、」
 パァァン!
 風船が割れたような音がした。続いてドサッっと人が倒れる音が2つ。シンジとアスカが崩れ落ちた。
「空気の振動数と波長を合わせればすぐにこの程度は防げるわ」
 ようやく自由になり、四つん這いのシンジは喉をさすりながらレイを見上げた。すると、レイもシンジの方を見ていた。視線と視線が1つの線上で絡み合い、一本の糸になる。助けられたことに気が付かないシンジは呆然と、彼女の紅い双眸を見ることしかできない。だが、レイの方は涼しげな表情にほんの少しだけ優しさを含ませて、シンジに言った。
「大丈夫。シンジ君は私が守る」
 シンジの視界で、レイの顔にまた突然のデジャ・ヴが覆い被さった。
 シンジは戸惑う。突然、また懐古感がじわじわと胸の中からわき出してきて、なぜか切ない気持ちになったのだ。しかし、レイが転校してきたときのデジャ・ヴとは違い、今度はぼんやりとした映像までが浮かび上がってきたのだった。その映像は酷く不鮮明で、前後のつながりもはっきりとわからなかった。だが、不鮮明な映像が一度だけ鮮明になり、音も聞こえてきた。それは古いテレビのチャンネルあわせによく似ていた。4歳くらいの女の子が、自分の目の前に立っていた。その子の背中が見えた。シンジは見上げている。自分が座り込んでいたのだ。その少女が振り返って言った言葉。
『大丈夫。シンちゃんは私が守る』
 そして、やってきたのと同様に突然映像は薄れてゆき、やがて消えていった。なんの脈絡もなく、シンジの手の中からこぼれ落ちていったのだ。
 自分を見つめられていることに気が付いたシンジ。もう一度彼女の目を見て言った。
「……レイ? レイなの?」
 シンジが訊ねたときには、もう彼女は視線を男の方に向けていた。答えは返ってこない。落胆しかけたシンジだったが、アスカのことを思いだして振り返ると、隣で彼女は気を失っていた。慌てて息を確かめる。ちゃんと脈拍も呼吸もあったので、ホッとしてしまい、体から力が抜けていった。
 レイは毅然として男に言った。
「帰って。もう私たちの前に現れないで」
「そうはいかないな。こんな芸当を見せられてはますます引けない」
 よけいなお喋りはここまでだと、彼の顔から笑みが消えたことが雄弁に語っていた。光を弱めていたオリハルコンからヒィィィィィンという、澄んだ高音が聞こえはじめた。
「今度は手加減無しだ」
 ヒィィィィィィィィィィン……。
 音は徐々に強さを増す。
 音なんて聞かせてどうするんだろう、とシンジは思った。なんの意味があるんだろう、と。
 しかし、レイの表情に苦悶の表情が浮かんだときに、そんな疑問は吹き飛んだ。
 ヒィィィィィィィィィィン……。
 音はまだ強くなっている。今度は、シンジにも不快感が侵入しはじめてきた。体の中からわき上がる嘔吐感や芯の方から痛む脳。体内を何かに調べられているかのような感覚が、一層シンジの気分を悪くさせた。それは、音が強まるにつれて増幅されていく。
 シンジがまだ耐えられていた頃、まだ周りに気を配る余裕があった。アスカは気を失っているのが幸いしているのか、影響はないらしかった。だが、レイはそうではなかった。頭を抱え、震えながら何かに必死になって耐えていた。シンジよりも受ける影響が大きいらしく、すべての面で何倍もの苦痛を味わっているように見えた。
「うぅ…」
 生ぬるいコンクリートの上にへたり込み、苦しみをそのまま小さな声にして発散させているようだった。しかし、そんなことでは不快感を拭い去ることは不可能だった。
「レイ」
 呼びかけたシンジの声も弱々しい。
「2人とも抵抗をやめた方がいいぞ。早く気を失った方が早く楽になれる」
 そして拉致される、というわけか。そうシンジは思った。それは全く持って正しい。この男の目的は自分たちをどこかに連れ去ることなのだろう。だが、同時に冷静に別のことも思った。この人は、前会った人とは違う人だと。前回は言葉や仕草の1つ1つに鋭さと底知れない深みがあったが、目の前の男には外見はほとんど見分けがつかないくらい一緒でも、内面は明らかに違って見えた。それ故に、ゆとりが生まれてきたのである。不思議と、もう怖くはなかった。
 負けてたまるか。
 シンジの思いも虚しく、オリハルコンの光はますます強まり、レイはもはや痛みのあまり起きあがる事すらかなわない。今度は先ほどの不思議な壁のようなものが意味ないのか、と思ったとき、男がシンジの方を見ながら、見透かしたように言った。
「壁で防がれるのならば、それに同調させて透過させてしまえばいいだけの話。防ぐ手だてはない。オリハルコンが放つ以上の力で飲み込んでしまうか、私を倒すかしない限り苦しみからは逃れられない」
 それを聞いて、シンジは渾身の力を絞り出して立ち上がった。レイを助けなくちゃ、と思った。
 さっきは助けてもらったのだから、今度は僕の番だ。
 でも……でも、どうやって?
 やはり、また見透かされたように、
「どうするつもりかね?」
 と嘲笑された。しかし、そんなことにかまっているような余裕はない。
 必死で今の状態を考える。不快感を刺激するために脳に直接何かを送り込んできているような気がした。その根元はあのオリハルコンと呼ばれた青い宝石が光っているから。でも、どうすれば……。
「シ……シン…ちゃ………ん……」
 レイが言葉も切れ切れに、何かを言おうとしていた。シンジは先ほどとは逆に、自分が笑わなきゃ、と思い、無理に笑顔を作った。だが、できあがったのは泣き出す直前のような表情だった。そのまま、無理に作った笑顔のままに、レイとアスカに向かって言った。
「君たちは僕が守るよ」
 それを聞いたレイの目から、紅い色が急速に消えていく。あっという間に元の茶色い瞳になる。それと一緒に体からあふれ出していた光も急速に消えていった。
「シンちゃん…」
 そこにレイがいた。さっきの知らないレイじゃない。僕たちと暮らしているレイが、シンジの前にいる。それが根拠もないまま悟ってしまった瞬間から、知らないうちに涙が出てきそうになった。嬉しくて、ホッとして、それだけのことで無性に喜ばしかった。
 知らず知らずのうちに、脳に直接響いていた先の澄んだ高音が消えていた。耳には届いているが、それはあくまで聴覚での話で、脳味噌を直接揺さぶるような感覚は消えていたのだ。
 なぜだろう、と思い、男の方を見てみた。そこには立ち上がる前と同じ情景がそのまま残っている。数メートル向こうで対峙する男。その手前で光るオリハルコン。聞こえてくる音。何も違わない。
 だが、1つだけ違っていたことがあった。それはシンジ自身だった。
「まさか君まで目覚めるとは思わなかった」
 苛立たしげに男が言う。本当に意外そうではあった。だが、それ以上に憎々しさが無音で伝わってくる。それはシンジに無形の重圧を与えた。
「光ってる…」
 1つの変化。それは、シンジ自身が前のレイほどではないにせよ、少しだけ淡く光っていたのである。レイの時より、少しだけ緑色を帯びた白だった。
「こうなった以上、腕の一本や二本は覚悟してもらう。君にも手加減はなしだ」
 そう宣言して、男は大股で歩み寄ってきた。
「シンちゃん……」
 レイが覚えていたのは、そこまでだった。張っていた気がプッツリとそこで切れてしまい、アスカと同じ世界へと移転することを強制されたのである。最後につぶやいた大好きな人の名前は、彼の耳まで届かなかった。










「HALの所在地が判明しました! ……う、宇宙です。地球の衛星軌道上を回っています!」
 伊吹マヤが、驚きを素直に表現したが、彼女の先輩にあたる人物は意外そうな素振りさえ見せなかった。これも予測の範囲だったのだろう。だが、すぐにリツコの顔も曇った。物理的に排除するのは衛星の軌道を調節するために別の場所のコントロール施設も占拠しなくてはならない。コレばかりはコンピューターネットワークだけではどうにもならないだろう。
「HALの物理的排除は当初からあてにはしていません。このまま相手の接収を最優先に」
 はい、という返事が唱和した。
 もうすでに、この部屋は1教師と講師たちの存在は消えてしまっている。ここにいるのは、教育者ではなく、ペンタゴンなどの施設内の軍人と、さほど変わらなかった。
 それに気が付いているからこそ、ミサトはいい顔を終始しなかったのだろう。不愉快な思いをしているのはリツコも同じであった。ほかの3人は、この現状をどのようにとらえているのか、と思ったがきっと自分たちの考えはすぐに理解はできないだろう。
 わからない方が幸せなのかもしれない、と思う。
 リツコの眼前で、HALの抵抗が消えたサインが点った。そして、偶然だが、彼女の知らないところで宇宙空間で、1つの人工衛星が制御を失って徐々に地球に近づき始めていた。




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