「どうなったっていうんだ……?」
 何がどのようになってどう推移しているのか、シンジが一番知りたいと思っていたのである。だが、向かいの男はすべてを悟ったかのように、一見無造作に近づいてくる。
 シンジの体から、先ほどのレイと同じような現象が起こっていた。
 そして、そのおかげで脳を揺さぶられるような不快感も消えたと考えるべきであろう。ほかに該当する理由はない。もう、レイは気を失って不思議な発光も起こっていないのだから。俯せに倒れ込んだレイだが、命に別状がなさそうなのでホッとした。
 だが、その間にもズンズンと男は歩み寄っており、シンジが振り返ったときにはすでに眼前に黒色の壁となって立ちふさがっていた。
「あっ」
 声を漏らした。と、次の思考に入る前には首もとに手がかけられていた。そして、苦しいと感じたときには足が宙を彷徨っていた。彼とほぼ同じ視線の位置に自分の目が並ぶ。足は20センチほどコンクリートから離されており、堅い感覚が足の裏を離れたことがやけに心細く感じられた。
「ぐ……ぅ……」
 体つきは細いのに、それに似合わない強烈な膂力がシンジを驚かせた。この年齢すら判断できない男は不真面目さを微塵も見せず、ただひたすらシンジの目を見続けていた。ネコに睨み付けられたネズミのように、体が思うように動かなくなるような視線。それがシンジを襲い、抵抗ができないまま万力で締められるような痛みを喉に感じ続ける。
 じっとりと熱を持っていて、かなり熱い。
 このままなのか。
 このまま何もできないのか……。
 自分を持ち上げている腕をつかんでみても、鉄のような固さを感じるのみで、首にかけられた腕の力はピクリとも変化しないのである。無力感だけがジワジワと心に広がっていくのを感じた。涙が目に浮かんできそうになる。我慢しないと、目頭の熱さに負けてしまいそうだった。
 不思議と死は身近に感じなかった。だが、恐怖はあった。絶望に犯されていく自分の心の弱さに対しての恐れは、何よりも深く強い闇。
「ちくしょう」
 弱々しい、口から声にならない呻きが漏れ出す。だが、彼の意識を全て刈り取るまで腕の力は弱まらない。一気に気絶させてしまう気なのだろう。あるいは死すらいとわないのかもしれない、とすら思う。とにかく、このまま為されるがままになるしかない、ということだけがはっきりしていた。
 熱い。
 喉の皮膚が焼けるように熱い。
 痛いのか熱いのかが曖昧になってきたのだろうか。
 いよいよ駄目だな、と思い始めたときに意外なことが起こった。
 シンジの体が男の咆哮と共に地面へ叩きつけられたのである。衝撃で息がつまり、悲鳴すら上げることができずにもだえ苦しむシンジだが、投げ捨てた男の方も手のひらから煙を上げていた。見れば、手のひらは黒く炭化するほどに焼けただれてしまっていた。シンジは慌てて自分の喉を触ってみるが、傷らしい傷はないようだった。だが、体は重たさを増している。重力が2倍になったみたいだった。
 背中を押さえながら起きあがるシンジ。だが、背筋を伸ばせない。
 何が起こったのか判らないが、痛みは最初はふだんと変わらないほどかなりきつかった。しかし、すぐに汐が引くように治まっていき、10秒もするとほとんど気にならなくなってしまった。そして、どうやら男の手も自分が焼いたらしいとは解るのだが、何故かは全く理解不能である。
 苦痛は軽減されたものの、感覚まではそうはいかないらしく頭がフラフラとしたままだった。ぼんやりとしたまま男を見るが、彼の顔はどんな表情をしているのか全然見えない。朝起きたときの感覚に似ていた。考える能力を半分も使えないところがそっくりだった。
 男はギラギラした視線をシンジにぶつけてくる。怒りと憎しみを隠そうともせずに。
 シンジはだからといって、何も感じ取らなかった。考えるのが億劫だったのだ。
「……守らなきゃ……」
 自分でそう言ったことも気が付かなかった。
 純粋に願った。
 前の時みたいに、レイに居なくなってもらいたくないんだ。
 今のまま。
 楽しいままいたいんだ。
 少しでも長く。
 少しでも長く。
 できればこのままいつまでも一緒にいたいんだ。
 アスカも。レイも。
「許さない」
 服を着た悪意が再び動き出す。
「許さない!」
 男が逆の無事な方の腕でシンジをつかもうとしてくるのが見えた。
 守るんだ。
 今のままで…。
 この人の手、僕がやったんだよな。
 だったらもう一回できないかなぁ…。
 そうしたら諦めてくれるかもしれない。
 また普段の日常に戻れるよね?
 だから、僕の中の不思議な力。
 あるんだったら…、夢じゃないんだったら、もう一回だけ。
 もう一回だけ。
 お願いだから、僕らを守って。

 シンジは目と閉じて、静かに待った。
 何かが起こるかもしれない。起こらないかもしれない。
 シンジに残された時間も少なくなってきていた。自分で、意識がとぎれそうになるのを自覚していたのである。もう、立っていることすらできないほど力がない。体が急に重たくなった。痛みを消してくれた何かが、代わりに疲労と睡魔を残していったみたいだ、と思ったシンジ。
 お願い、助けて!
 シンジの心の声に呼応するかのように、一層彼の体からあふれる光が強まる。
 その時、オリハルコンから強烈な閃光が巻き起こった。
 ゴウッ、と一陣の熱風がシンジの体を包んで消えた。
 そして、シンジはいつまで待っても彼の体に触れる他人の皮膚の感触はなかった。
 耐えられずに膝から崩れ落ちた。
 残された最後の力はもうほとんどなかった。意識をつなぎ止めるだけでどんどん消費されていく。
 現実と夢の合間が曖昧になっていくのが判った。
 最後の最後の力を、瞼を持ち上げることに使った。
 そこで見た光景は、網膜に焼き付けて、忘れる恐れが無くなると再び目を閉じた。
 彼の周りはクレーターのようになっていた。シンジを中心にして20センチくらいコンクリートが半径5メートルほどが皿状にえぐられていた。そして、男の姿は忽然と消えていたのである。何故かを考える余力はもう残っていない。
 シンジの意識がとぎれた瞬間、同時にオリハルコンも輝きを失って浮遊力を失い、地面へと落下していった。そして、衝突の威力に耐えきれず、乾いた音を立てて粉々に砕け散って、欠片すら残らなかった。砕けた粉末状の残りも、風に流されて何処へかと消えた。
 風が収まる頃には、シンジの体からの発光も収まっていた。
 あとに残ったのは、倒れた中学生の男女3人。
 そして、やっと訪れた何時間ぶりかの静寂。
 瞬く星空が彼らを見つめている。夜空の王もまた、シンジたちを照らしている。
 その遙か頭上を、星々の隙間を縫うように数十の流れ星が輝き燃え尽きていった。







Neon Genesis EVANGELION
Please,Never ending dream

EPISODE:6 "Asleep : With Still Hands"







「結果報告は上がってきたのか?」
 低い声が広い空間ではよく通って聞こえる。冬月の声は、今は教育者のそれとは異なっていたといえる。どこか学校で見せる暖かみが欠けている、と言えた。
「2分前にな。正式な書面はもう少しかかる」
 ゲンドウは画面を見つめてそう答えた。モニターに写された文字を冬月も流し読みしていき、全てを見終わると一際大きな溜息をついて、側のソファーに体を沈み込ませた。待つことに疲れ、やつれた老人の顔だった。ロマンスグレーの髪の毛が、一層白に近づいてしまったような気がする。
 だが、テーブルに腕をついているゲンドウも五十歩百歩といったところであった。待つことを余儀なくされる、というのは自分が行動することよりも疲労のすすみ具合も蓄積の度合いも比べものにならないほど大きいものであった。しかし、これからはこういったケースが増えることが予想されるだけに、胃壁と髪の毛の両方が心配である。
「報告ではDNA鑑定でも本物だと証明されたそうだが」
 冬月の声は、吐き出す息と混じって僅かに熱っぽい。
「ああ。だが、奴は偽物だ。ここに現れたときに直接顔を合わせてみて解った」
「確かに本物がノコノコといった感じで現れたりはすまい。まあ、それはとりあえず置いておこう。オリハルコンのエネルギーはリアクター(原子炉)の数十倍のエネルギーを計測した、とある。コピーとはいえ、これほどの数字を出せるものなのか? もし本物が現存していたら、と思うと背筋が冷えるな」
「オリハルコンは今回も2000人以上の人間を飲み込んだ。前回とは比べものにならない」
「イギリスだったな。100人程が行方不明のまま、未だに消息不明」
「部隊長クラーク。そして操っていたサウザーのクローンも取り込まれた。それが本物ではなく不完全なクローン体である唯一無二の証拠だ」
「碇、お前の子供たちは無事だったそうだが、大丈夫なのか?」
 初めて冬月の声に人間の感情らしい何かがこもった。
「問題ない」
「そうか……」
 ゲンドウは顔色も声色も、赤も青も白も混じらず黒を貫き通している。何者にも染まることを拒否し続け、混じろうとする方を自分の色に染めてしまう強引な色だ。だが、その裏に流れる赤い血には、ちゃんと人間らしい感情もあるのだということを知っている人間はごく僅かである。
「病院には行かないのか?」
「ユイが行っている。必要ない」
「碇、これは人生の先人として言わせてもらうんだがな。こんな時は仕事を投げ出してでも息子の元へ向かうものだ」
「……わかっている」
 こうは言ったが、ゲンドウには立ち上がる気配は皆無である。
 フゥ…と溜息をまたついて、冬月は目を閉じた。まだ事後処理でやらねばならない仕事が山積みになっている。時間がたてばまだ増えるだろう。雑務に関しては、彼の上位の人間よりも冬月の方が優秀なのである。
 こんな時、さっさと息子の元へ駆けつけろと尻を蹴飛ばしてでも強く言うべきだろうな、と思いはするものの、できない今の自分とゲンドウの立場が煩わしかった。










 リツコが合図して陸上自衛隊の特殊工作員部隊が第3新東京市立第一中学校へと突入したのは、日付が変わって6月24日の水曜日になってからである。そこで彼らを待ち受けていたのは、何故か両手を後ろ手にきつく縛られ転がされているシリウスの兵士たち20人だった。哨戒の任に当たっていたメンバーも含めた数字であるが、哨戒のグループは加持の手にかからず、戦自の長距離射撃によって全員が腕か足に銃弾を撃ち込まれて戦闘不能になった為に拿捕されたのである。
 だが、戦自の司令官たる城山の顔を曇らせた報告もあった。彼らの司令官、クラーク少佐の姿がどこにも見えないのである。中学校の屋上では正体不明の発光が3つ観測され、そのらは全て計器の故障だと思うしか説明できないようなデタラメなエネルギー数値を示していた。ゲンドウたちの報告書にもあったように、現存する熱機関などでは説明できない。
 また、中学校内では教師2名、講師3名、生徒3名が保護された。うち、城山と交信を行った葛城ミサト教諭と碇シンジ、惣流アスカ、綾波レイの3名は気絶した状態で保護されたが、命に別状はなく、市内の病院で手当を受けている。特に目立った外傷もほとんどなく、擦り傷を碇シンジが体の数カ所に覆っていただけであった。一名だけは消息不明だった。
「で、その少年の髪が焦げていたと?」
 城山が訊ねて、副官竹中はファイルをめくりながら答えた。
「はい。僅かながら、何か熱で焼けたような痕が頭髪の数カ所に残っていたそうです。例の不明な光の原因究明になるかもしれないと、科学研の連中は言っております」
「ふむ」
 このような会話が戦自の基地内で交わされたのは後日になってからである。あと、中学校の裏で待機していた逃亡用のヘリコプターとその乗組員は銃撃戦の後に全員が射殺された。彼らは逃亡不可能を悟ると、生き残った数人は死体すら残らないほど派手に爆発を引き起こし、米軍戦自両軍に少なからぬ死傷者を生み出させたが、今回の事件の主犯格は全て逮捕、もしくは死亡したことになり、24日の夜になってようやく街に安全宣言が発令された。事件発生から、40時間以上経っていた。










 さらに一夜明けて、加持リョウジは芦ノ湖にいた。手すりにもたれかかりながら、正面の湖から吹いてくる風に身を任せていたが、その表情は寂しそうでもあった。手には小さなはなのブーケが握られていた。
 それを、ポイッと湖に投げ入れる。
 パシャッと音を立ててブーケは水に浮かんだ。いくつもの波紋が音もなく広がっていく。それを見る加持の目は少し虚ろになったがすぐに元に戻った。どこか遠くの記憶に思いを馳せていたのだろう。
「この時期死ねて幸せだったのかもな」
 あの時、加持はミサトに当て身を食らわせてから、彼女の体に覆い被さった。今考えれば何故なのかよくわからない。オリハルコンの光が何を引き起こすのか、加持は知識で知っていた。それ故に、まず身を守る行動をとるのだと思っていたが、実際は自己犠牲を行っていた。今までなら真っ先に自分の安全を確保していただろう。それをやらなかったのは、それがミサトであったからか、という疑問と共にしばらくは加持の中でくすぶることだろう。
「だが、俺たちの生きてきた世界で死は敗北の意味だろう。俺は生き残る。ずっとな」
 花に向かってそう言い残し、加持は踵を返した。しばらくは事件のことを記事やルポにすれば食べていけれそうだ、と考えている。ジャーナリストにとっては、変化こそが常に求め続けられている環境なのである。停滞はほとんど生み出すものがないのだから。だが、自分の最も嫌う殺人と暴力がその変化であればどうするのか、という二律背反もある。だが、さしあたって今日の夕食にありつくためには腕を動かすしかなく、それは加持にとって不快な作業ではなかった。
 不快なことはもうたくさんだ、と日本に帰ったときに思ったが、もうしばらくは解放されそうにない近い将来を考えると、やや馬鹿馬鹿しくて溜息しか出てこない。
 さて、次はいつ頃顔を出せばいいだろう。ゲヒルンと学校にはうっかり顔を出せないな。
 お前はどう思う? 俺はどうしたらいいか。
 加持が訊ねた太陽は、もちろん何も答えを返しはしない。










 葛城ミサトが目を覚ましたのはゲヒルンに隣接する病院施設内であった。保護から3時間後のことである。警察や戦自関係者から事情聴取が行われたが、彼女は必要なことだけを喋ると疲れたからと、唯一の知人であるリツコだけを残し、ほかは全て個室の外へと追っ払ってしまった。その前に、彼女がしたただ一つの質問は「加持リョウジというジャーナリストはどうなったのか?」というものである。
 誰もそれには答えられず、リツコを含めた全員が「知らない」と答えた。リツコ以外はそんな人間があの夜学校にいた事すら知らなかった。よけいな事を訊いてしまったかな、とも思ったが、追求されなかったので放っておくことにした。
「HALって衛星だったの?」
「正確には衛星を形取った、カモフラージュされたスーパーコンピューターだったのよ。どおりで世界中のどこにも見あたらなかった訳ね。向こうから回線を開かない限り侵入できないと言われていた理由もそこら辺にあるわ」
「本体見つけて直接線を差し込んでみましょう、ってな訳にはいかないもんねー。それでどうなったの?」
「あとは知っての通り、不利を悟った相手側が地球に落下させて流れ星になったわ」
 リツコは新聞の一面を見せた。そこには写真大でカラーで流星群が掲載されていた。
「それより、加持君が気になる?」
「べぇっつにぃー。そもそもあんな奴のせいでアタシはこんな所にいるのよ」
 白々しいミサトの態度があまりにも子供じみていたので、リツコは耐えられずに笑い、ミサトの刺すような視線を浴びることになった。目尻をふき取りながらリツコは謝った。
「加持君から伝言があるの。あなたに」
 最後のあなたに、を力を込めていった。ピクッとミサトの体が反応する。平静を装っているが、全身が耳になってリツコの次の言葉を待っている。
「お詫びにチョコパフェおごる、だそうよ」
「ふん」
 言葉は許してやるもんか、と言っていた。だが、ミサトの顔はどこか嬉しそうだった。リツコはそれを見て、先ほどよりは小さく、気が付かれないように笑った。
 ミサトは見抜けなかった。リツコがこの時嘘をついていることを。










 碇シンジ、惣流アスカ、綾波レイの3人もミサトと同じ病院に収容されており、治療を受けているが、アスカを除いた2名はなかなか目を覚まさなかった。医者は原因を過労と酷似した状態であると断定しており、彼がいうには、
「許容量以上の体力を使ってしまったのでしょう。例えば沈没した船から命からがら生き延び、2週間漂流した人間が救助されたときの状態と同じですよ。そういう人間は、まず真っ先に水を求めたりするかもしれませんが、いったん眠りに落ちると3日目をさまさなかったりすることもありますが、珍しいことではありません。彼らは、今、その状態なのです」
 そういって、アスカを安心させようとしたが、完全に成功したとは言い難い。だが、前に目が覚めたアスカも退院は許可されたが、事件から2日眠り続けるシンジとレイの側を離れようとはしなかった。周りの人間も、それに関して何も言わなかった。
 アスカは事件の後、次の日の朝には普通通りと同じ時間に目を覚まし、ユイやキョウコを安心させたものだ。アスカは迎えに来てくれなかったせいであんな目にあったんだと、キョウコを困らせるようなことを言ったものの、キョウコが涙目で謝りはじめると、なにやら急に怒る気力がしぼんでしまい、それ以後は大人たちの対応に文句を言ったりしなかった。その日の午後には、もう普段のアスカだった。辺りに元気を振りまき、いっこうに目を覚ます気配のないシンジに枕元でブツブツと文句を言い続けたり、ユイに何をしていて迎えに来れなくなったのかを聞いていたりしていた。
 ユイは力無く「もう身動きがとれない状態になっていた」と言った。確かに、パニックに陥った群衆が路上に溢れて、暴動の寸前だったからである。車が走っていれば囲まれて、袋叩きにされただろう。彼女たちもゲヒルンで待機するしか方法がなかったらしい。
 そんな風に時間が3日目に入って、綾波レイが目を覚ました。開かれた瞳は茶色だった。彼女はあの日の夜の記憶を失っていた。










 これは補足である。『シリウス』は護送中、全員が自決を計り、17人がその場で成功し、息のあった2名が病院で生を終了させた。一名のみが生き残ったが、彼は哨戒班の一員で出血多量による意識不明状態だったために生き残ったのである。彼らは口の奥に隠した毒薬を使ったり、隠し持っていた手榴弾などで1人1人が数人を巻き込んで死んでいったのである。
 そのほかに『シリウス』の犠牲になった人々だが、大半が死体すら見つかることなく葬られることになった。崩れ四散したテレビ局の瓦礫の下からは、血のこびりついたコンクリート片が1つとして出てこなかったのである。犠牲になったと思われる人々の衣服などは残っていたものの、肝心の肉片などは全く出てこなかった。変わりに、オレンジ色をした胎児を包む羊水と酷似した成分の液体が、爆発の熱でも完全に蒸発しなかったおかげで採取された。しかし、そんなものが何故その場にあったのか、そして何故死体が一体として出てこないかは不明のままである。警察も消防も結論を出せずに、このまま迷宮入りの事件として扱われるだろう。
 それと、今回の事件を重く見た日本政府が声明を発表し、このような事態を二度と招かないようにありとあらゆる方面での対策をとる、とこの国の伝統的な具体性をハッキリさせることのない態度を示したが、これは余談であろう。
 最後に『シリウス』の名前の由来であるが、これはアスカが看病の暇に本を読んでいて偶然発見した。あと、戦自の首脳部でも同じ判断を下しているが、これは全くの偶然である。アスカは、ポツリと呟いた。
「……全てを焼き尽くすもの」
 恒星シリウスは全天でも最も強く明るく輝き、全てを焼き尽くすと言われている。おそらく、テログループのメンバーも、テレビ局の爆破などを目的にしていたと一般的に信じ込ませるために、この名前を選んだのかもしれない。現に、テレビのニュースなどでも専門家はそう語っている。しかし、城山はそう考えていなかった。
「私の考えは違う。彼らは確かに逃亡中、偶然あの中学校に立ち寄ったのかもしれない。だが、私はあの中学校にこそ本当の目的が、目標がおかれていたように思えてならない」
 理由は、正体不明のエネルギーなどいくつか挙げられるが、彼はそれを周りの人間に語って聞かせることをほとんどしなかったし、聞いた数人も誰にも言わなかったので、ほとんどの人間が報道通りの、「現政治体制などに不満を抱いた過激派の史上まれにみる凶悪な犯行」との断を下した。テレビ局から放送を行ったことが、この説を強烈に後押しすることになった。主犯格を捕らえられなかったことについては、禍根に思われたが、特に処罰は下らなかった事も付け加えておく。もっとも、主犯格の2人は物理的にもう存在していないと思われる。少なくとも加持リョウジなどはそう考えている。黒幕が別にいることも、彼らはわかっていた。










 首筋にかいていた汗の不快感に耐えられなくなって、シンジは嫌々ながらに目覚めることになった。まぶたを開ける前から外のまぶしさに、目がくらみそうになる。
 慣れないシーツの感覚。遠くで自分を呼ぶような誰かの声。そして、見知らぬ天井。
「シンちゃん!」
 突然、自分を呼ぶ声がハッキリと近くで聞こえた。同年代の少女。自分のよく知っている人。同居している女の子。
 そうか、僕は病院にいるんだ、と思った。右からレイが、左からアスカがそれぞれ心配そうな顔でのぞき込んでいるのが見える。レイは今にも泣きそうな顔だった。アスカは不機嫌そうな顔をしていた。それは、彼女が心配していることの裏返しだと、シンジはよく知っている。
 僕は何故ここで寝てるんだろう。なんで、2人は心配そうにしてるんだろう、と思った。
「どこか痛いところはない?」
「うん、平気だよ。何ともない」
 レイがズズッと鼻をすすった。そして、へヘッと笑った。ブラインドからの光がちょうど平行になって差し込むので、シンジは眩しくて顔をしかめた。そして、もう一度呟いた。
「大丈夫だよ」
 そして、思い出した。自分が屋上で何をしたかを。あそこで何が起こったのかを。最後の方はよく思い出せなかった。レイが光ってて、頭が痛くなって、助かって、レイが気絶してアスカも気絶して、僕が光り始めて、首を絞められて……。それ以上は思い出せない。だが、それ以上考える必要はあまりないような感じがした。まあ、いいじゃないか。こうやって、助かったんだから。
「何笑ってるのよ」
 アスカが気味悪そうに、そして何処かばつが悪そうに言った。
「別に」
 ハッキリしない記憶の中で、1つだけ覚えていることがあった。
 この2人と一緒にいたい。
 シンジは微笑んだまま言った。
「何となくね」
 僕はこの2人が大切だ、ということが解っただけでも嬉しいんだ。
 アスカもレイも大切なんだ。
 失いたくない。
 もっと長く、一緒にいたいんだよ。
 レイの目尻に光る涙。そして、そんな顔を見られて照れている表情。
 アスカの素直じゃない心遣い。それでいて、僕を一番解ってくれている人。
 はっきりと恋心を2人みたいにもてない僕を許して。
 こんな表現が正しいってあんまり思えないんだけど
 でもね、僕はこれだけはハッキリと僕も言えるよ。
「……僕も好きなんだ。きっと、ね……」
 シンジは自分の心の中だけで言ったつもりだった。しかし、言葉にのってアスカとレイの耳に届いてしまった。
 席を外していたユイが駆け込んでくるまでのしばらくの間、シンジは2人から「どっちが」「どのように」「どのくらい」「いつから」を代わる代わる問いつめられて、答えに窮してしまったのだった。 半ば無意識に言ってしまったのだから。
 ユイが見たところ「困った顔をしながらも結構楽しそうに見えました」と、その夜にゲンドウに話したのである。彼らも心から安堵した。










「ねえ、シンちゃん。わたしだよね? やっと自分の心に素直になってくれたんだよね?」
「なに言ってんのよ。私に決まってんじゃない!」
「ほら、すぐ怒鳴る赤鬼はおいておいて、もう一度言ってよ。『レイが好きだよ〜』って」
「誰が赤鬼ですってェ! シンジは私が好きなのよ! そうでしょ!?」
「え、いや、その……」
「違うの!?」
「ううん、そうじゃなくて」
「ほら、やっぱりレイじゃなくて私よ」
「だから、そうじゃなくてね……」
「あーん、信じてたよー、わたしを選ぶってぇ〜」
「どさくさに紛れて抱きつくな!」
 アスカが抱きついたレイを引き剥がそうとする。レイが抵抗して、一層強くシンジの首もとに抱きつく。夏の薄着とレイの胸の弾力を胸に押しつけられて、シンジの鼓動は一気に早くなった。足の先から頭のてっぺんまで、一気にゆでだこのように紅くなる。
 それを見たアスカの平手がシンジの頬に向かって一直線に飛んでいった。
「このバカシンジ! スケベ!」
 パーンという乾いた音と、クラクラとしてしまうほど脳髄に響く衝撃。
 シンジは思った。
 元に戻ってきた実感が、今やっと湧いた、と。でも、やっぱり痛い。
 ぼけっとしているシンジを見て、レイに抱きつかれて嬉しそうにしていると勘違いし、ますます逆上するアスカ。そんなアスカにアッカンベーをしてみせるレイ。
 今度、シリウスがどこにあるのか赤木先生に聞いてみよう。どんな星なのか、そしてどうしてあの人たちが僕たちを狙っていたのか、あの加持って人に聞いてみよう。でも、僕はそんなことよりも、帰ってきたんだ。
 気が付いたとき、アスカの第2段制裁が飛んできていた。両の頬に紅葉型の赤いあとができあがっていたシンジであった。

 月が天空より遙かな高みから彼らを見下ろしている。昼間であろうと、空の王はやはり王であった。










「なあ、Ryou。これが最後になるって本当か?」
「ああ、クラーク。俺はこのミッションが終わったら日本に帰るよ」
「帰ってどうするんだ?」
「マスコミをやるさ。おっと、今もそうだけど」
「ははは、わかってるわかってる。でも残念だ。お前の情報収集分析とトラップ技術はここでも並ぶ物がいないほどなんだけどな」
「素直に喜んでおくよ。おっと。ヘリのお出迎えだ、もう行かないと」
「気をつけていけよ、RK」
「ああ、もう二度と会えなくなることを祈ってる。お互いに生きたままで」
「そうだな。次に会うときは味方同士と言うことはあり得ない、か」
「生きてろよ」
「ああ、生きるさ。お前も死ぬなよ。自分の身は自分で守るしかない、って事忘れるなよ」

 この30時間後、加持リョウジの所属する部隊は彼を除いて全滅する。生存者は彼だけであったが、クラークはそのことを知らなかったという。彼は加持と別れてすぐに別の組織へと移籍して、新たな特殊部隊の編成と育成を任されたからである。負傷して収容された加持はすぐにドイツの病院へ移送され、回復後はゲヒルンドイツ支部にて諜報部員として採用されたが、それは一時昔の話であった。










 ミサトがマンションに帰ってきたのは3日ぶりくらいである。だが、実際はもっと長い時を外で過ごしたような感覚が残っていた。
 玄関をくぐり抜けようとしたとき、郵便受けの中に差し出しも宛先も書かれていない一枚の封筒が差し込んであるのが見えた。嫌な予感がして、彼女はそれを引き抜くと、ほかのことをすべて放り出して封を切った。
 便箋を取り出す手が小刻みに震えていた。
 差出人の名前はない。だが、誰から送られたものかくらいはすぐにわかった。わからないわけがなかった。彼女の目はすぐに並ぶ字を追った。
 差し出し日は事件の前日になっていた。そこには、『シリウス』というグループの存在と計画が詳細に記入され、対策方法などが記されていた。そして、オリハルコンと呼ばれる謎の宝石の存在、その宝石が引き起こす現象。
 そこを読んだとき、彼女の体にさざ波のような震えが走った。
「オリハルコンは魂の連なりと言われている。その所以は人を肉体ごと吸収してしまう力があるからだ。一度取り込まれたら、よっぽどのことがない限りサルベージはできない。気をつけてくれ」
 あの時、クラークは知っていたのだ。自分が取り込まれること。そして、加持は何らかの方法で自分を助け、そして詳細不明となった。
 考えたくはなかったが、そうとしか考えられなかった。そうでなければ、もう謝りにきてる。そう言う男なのだ、加持リョウジという男は。
 不意に視界が歪んだ。
 会えたと思ったら急に遠くに行ってしまった。その理不尽さが許せなくて涙が出てくる。文句の1つもまだ言ってないのに。
 その時、玄関の方から誰かの来訪のチャイムが鳴った。誰だろう、と思った。
 だけど、助かった、とも思った。このまま一人でいたら泣いてしまう。でも、誰かと居れば気を紛らわせられる。
 袖で目元をこすった。玄関まででて、戸を開けた。手紙はまだ握っていた。いや、離せなかったのだろう。
 だが、そんな必要がないことを、戸を開けた瞬間に知った。
「手紙読んでなかっただろ?」
 相手は言った。
「おかげで俺も肝を冷やしたな。まあ、無事でよかった。これ、詫びの代わりだけど」
 そう言って花束を差し出した。
 ミサトはそれを受け取らなかった。思いっきり振りかぶってから男の顔を叩いてやった。そして、次には抱きついていた。
 子供のようにあやされる事。それがこんなに気持ちいいものだったなんて知らなかった。
「ごめんな」
 加持はそれ以上言わず、ただ彼女を強く抱きしめた。




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