惣流アスカが碇シンジという少年と出会ったのは、もう10年も前のことになる。
 3歳か4歳の頃だっただろうか。今となっては薄れつつある、思い出という名の記憶。他の人々が等しく受け入れなければならない忘却という残酷な儀式を、アスカは優秀を謳われる記憶力でひたすらに拒否し続けてきた。共有してきた時間は、いくらシンジが忘れていこうとも、彼女がシンジに対しての想いが消えるまでは消されることはないに違いない。
 それらの時間は彼女の中でセピアに色付けされたとしても、決して脚色されたり事実をねじ曲げたりすることはなく、デジタル録画のごとく客観的に保存されていた。それでも美しく見えてしまうのは、アスカのそれ以後、シンジと過ごしてきた日々が紆余曲折あったとしても、結局はすばらしき日々だったからだろう。
 時々静かな夜の夢の中で上映される過去の記憶。それらは古ぼけた映写機で映し出されたとしても、摩耗することのなかった思い出が、アスカとシンジだけ観客として入場を許可された劇場の中で上演されるのである。
 アスカが母親に連れられてこの街にやってきたのは、やはり10年ほど前のことだった。だが、その時の記憶は何故か残っていない。というよりも、彼女の中の記憶はシンジから出会ったその時から始まっているといってよいのかもしれない。そのくらい出会いは鮮やかすぎる思い出なのだ。
 キョウコの話によれば第二新東京国際空港から小田急線リニアロマンスカーでこの街にやってきたという。それまでは研究者として名高い母親に連れられて世界中を転々としていた。だから彼女には故郷と呼べるような場所はまだなかった。窓の外を流れていく景色も、幼いアスカにはすでに見慣れたものだったのだ。面白くなさそうにしているアスカにキョウコは話しかけた。
「今度の街はきっと長くいるわ」
 そのときの記憶は残っていなかったが、おそらく幼いアスカは期待していなかったのだろう。母親から「次の街にはしばらくいるわ」と聞かされても、三ヶ月と保った例がないからだ。
 彼女の中で記憶のカメラはずっと短編映画のためにしか使われていなかった。しかし、今後続いていく巨編映画はその日の夕方からクランクインだった。
 その映画はいつも、彼女がシンジに思いの丈をうち明けたあの公園に至る坂道を、小さな惣流アスカがぬいぐるみを胸に抱えながら走って行くところから始まる。母親の話では引っ越しの邪魔になるからと、マンションの裏に見えた公園で遊んでくるように言われたかららしい。しかし理由を覚えていないのは、そこであったことが想い出深過ぎて、どうでもよいと思われたときに捨てられていったのだろう。
 息を少し切らせながら幼いアスカが坂を駆け上がって見たものは、砂山を一人ぼっちで作り上げていた碇シンジの姿だった。
 小さな手でピラミッドの形を模した砂山をペタペタと叩き、また砂をかけて固めていく。アスカは何もせずにその姿を見つづけていた。やがて完成したのか、アスカに気がついていない彼はすくっと立ち上がった。しかしその体勢のまま動かずに足元を見下ろしている。アスカは入り口から一歩も動けずにいた。その一つの空間を破壊したくないと、無意識が体を縛り付けていたのだ。
 景色の中に自分の存在がとけ込んだように感じ始める。シンジは相変わらず佇立したまま指一つ動かさず、何もかもが凍り付いてしまったように目に映り続けた。山肌を駆け下りてくる風だけが時間が停止していないことを教えてくれた。もし風がなかったら、そこは人の形をしたオブジェと無機質な遊具が散らばる寒々とした空間に成り下がっていただろう。
 ガスッ!
 じっとしていたシンジが突然動き出したように、アスカの目には映った。何を思ったのか、彼はいきなり整然と積み上がった粒子の山を蹴り崩しはじめた。
 蹴りながらシンジは泣いていたのだろう。何度も何度も砂を潰すように足を振り下ろしながら、小さな男の子は顔を手の甲で拭っていた。堰を切った濁流のように、シンジは何かに突き動かされて踏み潰し続けているように見えた。
 そんなシンジに、アスカは警戒する素振りを微塵も見せずに近づいていった。シンジはまだアスカに気がつかず、視線を落としたまま悲しそうに砂山を一から作り始める。涙でぬれた腕に、砂がまとわりついて気持ち悪いや、とシンジは思った。
「なに、してるの?」
 アスカは山を挟むようにして、シンジの向かいで立ち止まった。シンジは驚いて顔を上げた。幼い顔には泣き腫らした後の瞳と、何かへの悲しみだけ色づけている。アスカは胸がキュッと締め付けられたような気がした。
「どうして泣いてるの?」
 アスカの質問にシンジは答えられない。理由は突然話しかけられたこと、それと初対面の人間への警戒心だろうか。慌ててシンジは目をそらした。そのまましばらくお互い黙り込む時間が継続される。シンジは止めていた作業を再開するタイミングを失ってしまい、気まずそうにアスカの視線を避けようとしていた。
 アスカは砂場の近くにあったベンチの上にサルのぬいぐるみを置くと、またシンジの向かい側へと戻ってきた。
「一緒につくっていい?」
 アスカの顔には無邪気な笑みしかなかった。
 その屈託のなさにまずは呆気にとられてしまった。シンジは戸惑いながらも首を縦に振る。その仕草がどこかぎこちない。もう一度涙を拭うと黙々と手を動かし、砂を少しづつ積み重ねていく。そして何度かチラチラとアスカの顔を見ながら、視線が合うと慌てて俯く。それを何度か繰り返した。
 どうしてこんなにも哀しそうな目をしているんだろう。
 アスカはシンジを見るたびにそう思った。しかし、それを言葉に置き換えれるほど彼女は齢を重ねているわけでもなく、シンジも問いに答えられたかどうか。ただ一つ、アスカがこのとき分かったことがあるとすれば、それは間違いなくこの少年が傍らに誰か別の人間がいて欲しいことを願っていたことだろう。説明されなくてもそれは分かってしまったのだ。
 幼いアスカがシンジの顔に見た感情。それは普段、アスカがしているのと同じ顔に見えたからだろう。
「名前、なんていうの?」
「碇シンジだよ。お姉ちゃんは?」
「惣流・アスカ・ラングレーよ。あなた何歳?」
 シンジは四本指をアスカの前に立てて見せ、恥ずかしそうに「4歳」と言った。どうやら今までの誰とも違う雰囲気をまとったアスカを年長者と思っていたようだった。
「私も4歳。じゃ、いっしょだね」
 アスカはシンジの方を見ながら、今日一番の屈託のない笑顔を向けた。楽しくて仕方がない、とでも言いたそうに砂をかき集めて不細工な山にかけていく。透き通るかと思えるほどに白い手からは、似つかわしくないような汚れた砂がこぼれ落ちていた。
 新しいお人形さんみたい。
 シンジはそう思うからこそ目を合わせられない。彼女の顔を見ることすら恥ずかしかった。
 それを気がつかないアスカは平然とシンジの顔も見れるし、時として触れることもある手にも無頓着だった。シンジはアスカの手がかすっただけでもカチコチに緊張してしまう。初めて会った人間を警戒してしまうシンジの性癖はこのころからすでに現れていたが、自分でも気がつかないうちにアスカはそれを易々と突破してしまっていた。次第にシンジから力みや緊張が消えていく。気が付かないうちに笑っているシンジがアスカの前にいた。
 その日は一日中砂場で何かを作っては壊し、また作っては壊すという作業を幾度と無く繰り返した。日が暮れる頃には二人とも泥だらけになっていたが、アスカはそんなことは気にしていないように微笑んでいた。
「おうちどこ?」
 そろそろ帰らなくちゃ、と言ったアスカがシンジに向かって尋ねた。
 シンジは眼下のマンションを指さし、寂しそうに「あそこ」と言った。シンジにとっても楽しかった時間がもうすぐ終わる。それを哀しんでいる声だった。
「僕、引っ越してきたばっかりなんだ」
「ふーん、私も今日引っ越しだったよ。家も同じだね」
「アスカちゃんの家もあそこなの?」
 アスカは大きく頷き、シンジの手を取った。
「うちにおいでよ。ママが待ってるから、うちで遊ぼう」
 シンジは驚きながらも、今度は悲しみでなく喜びの感情を顔中で表現し、体全体で頷いた。
 二人は手を繋ぎながら坂を駆け下りていく。影はいつの間にか二人の身長よりも長く伸びていた。端から見れば、仲の良い二人が元気いっぱいに家路へついたように見えたかもしれない。だが、アスカには特別な日になったのだ。それがありきたりの出会い方で、例え10年たった今腐れ縁と呼ばれるようなきっかけだったとしても、煌めく時にとらわれているのだ。
























EPISODE:7 Phantom in midsummer's night
























 アスカが目を開けると見慣れた天井がそこにあった。寝ぼけながらもここが自室の中で、今、朝で目が覚めたのだと無意識に知覚すると、すぐさま体を起こして何度か伸びをする。
 レイが来てからというもの、昔のことを思い出すことも多くなったせいか、よくシンジと二人でいる夢を見るようになった。幼い頃だったり、つい最近だったり、選ばれる演目はバラバラで不規則きわまりなかった。しかしそれだけ相手のことを意識している証拠だろう。
 不快に感じることはなかった。それよりも「負けるもんか」という競争意欲がメラメラと沸き立つのを感じるくらいなのだ。
 布団から足を抜き出す。じかに肌に触れる空気が少し涼しくて気持ちよかった。
 彼女はベッドから抜け出すともう一度伸びをしてからカーテンを開けた。木漏れ日だった光がシャワーとなってアスカの肢体に降り注いでくる。彼女の体は満足そうに受け止めていた。雲がまばらな空模様はアスカの心の中と酷似しているといえなくもない。レイが来る以前の深い霧はほとんど吹き飛んで、今は太陽が地上からよく見える。いくらかの不安要素が雲となって浮かんでいても、悲観論や楽観論で考えなくてもいいくらい、どうでも良いと思えることが多くなった。
 元から「負ける」などという言葉が彼女の辞書に載っていないのだから。
「さーて、今日も一日がんばりますか!」
 優柔不断な少年の顔を思い浮かべながら、アスカは気合いを入れて180度向き直った。そこには大きめの鏡が立て掛けてある。映し出されたのは傲慢と自信と、何人にも反論を許さないだけの事実だった。人に対してなんてどうでもよかった。女の子である以上、一定量は人の目に気を使いはするが、一番肝心なのはたった一つ。一人の少年が、自分の可愛らしさでも美しさでも、とにかく要素は何でもいいからいいから、彼女だけを見つづけてくれる事だけ。今はまだほとんどが無駄な努力だと知りながらも、彼女は僅かな期待を込めて『惣流アスカ』を創りあげていく。
 髪をすくにも顔を洗うにも妥協は一切ない。将来、シンジが14歳のアスカを思い出したとき、あの頃から可愛かったんだね、って言ってもらいたいためかもしれない。そのとき自分が彼の隣にいたいと思う。その願いが無駄に終わったとしても、当面のライバルである綾波レイだけには何事においても負けたくなかった。
「負けるもんですか」
 鏡の中の少女がそう呟く。誰がどこからどう見ても、全てに隙のない少女がそこにいた。
 理想に描く完璧さとはほど遠いと思いながら、それは今現在では欲張りなことだと知っていた。だからこそ、現時点でできる最大の努力で最高の自分を自然に出していたかった。
 外見はほとんどどうでもいいのだ、シンジは。口や表面的な態度で鼻の下を伸ばしたりしたとしても、内部ではしっかりその人物を見極めようと常にアンテナを張っている。二次的なことを磨くことも確かに大切かもしれない。
 けど要は中身だ、とアスカは思っていた。だからこそ着飾ったりすることはほとんどない。化粧もしようと思えばいくらでもできるが、今まで数度しかしたことがない。色香で誘うこともできるだけの体も年相応以上に成熟しはじめていたが、その先に自分やシンジのためになるものが存在すると思えない。口説き落としもしなければ、まだかろうじて勝っている腕力で無理やり自分のものにすることもない。アスカはそんなことを何度も考えたが、結局は全部虚しくなるだけだった。だからそんなものは余った乳液を拭くのに使ったティッシュと一緒にしてゴミ箱に捨てて、大きく深呼吸。
 空気と気分を同時に入れ替える。
 後にはほとんど嫌悪をもたらす思考回路は存在を許されていない。
 鏡の前にあったのは穏やかな顔をした、今まで以上に柔らかく美しくなった少女の顔だった。










「おはようございます」
 アスカの声が凛として碇家の大人達の耳に届く。心地よい音楽のような響きを聞いて、ゲンドウは新聞から目を上げた。
「ああ、おはよう」
 またすぐに読んでいた記事に目を戻したのは嫌味でもなんでもなく、これが普段の彼の姿であるからだ。初対面の人間がゲンドウにこのような顔をされた場合に脅えないという保証は、碇家の人間にもアスカにもできないことだろう。そのくらいに無言の迫力がある存在である。実はレイも最初は顔に驚いたが誰にも言っていない。
 確かにシンジがいつまでも苦手に思うワケね、と思いつつも笑みは崩さないアスカ。
「あ、おはよう、アスカちゃん」
 ユイが一杯になった洗濯かごを胸に抱きながらダイニングに入ってきた。その隣を滑るようにすり抜けつつ、アスカも「おはようございます」と挨拶する。
「ゴメンね、毎朝」
「いえ、日課ですから」
 そう言いきったアスカにユイは苦笑した。確かに日課には違いないが、ユイがシンジを毎朝起こすのはわけもないことだ。それを好意でやってくれているのだから、母親の立場としてはありがたさと息子の不甲斐なさに申し訳ない思いが同居しているのだった。
「レイの方、先に起こしてきますね」
 完全にユイと体の位置を入れ替えたアスカはそう言い残し、レイの部屋へと一直線に向かっていった。
「あ、アスカちゃん。レイちゃんは……」
 ユイが思いだしたように振り返るまで一秒弱のことだったのだが、すでにアスカはレイの部屋の中へと消えていた。ユイは少し心配になりそのまま少し様子を見守ることにした。レイはいつもよりも30分ほど早く起きたところをユイとゲンドウに目撃されている。ゲンドウがチラリと見ただけでもレイは明らかにいつもよりテンションが高いことがうかがい知れた。そのときはなぜそんな顔をしているのか分からない二人だったが、ユイの方が楽しげに身支度をするレイに訊ねたところによると、
「ちょっといいことを思いつきました」
 という事らしい。それから妙にウキウキとしたレイが家中をあちらこちらへと身支度の続きに走り回り、アスカが来る時間を気にする素振りを見せながら隠れるように姿を消していた。
 アスカがレイの部屋に突入後ジャスト10秒。飛び込んだときの倍の速さでアスカが飛び出てくる。顔には不審げな表情が漂っており、なにか直感で嫌な気配を感じ取ったらしいとユイは思った。歩調も荒くユイの前を通り過ぎると、リビング、ダイニングに誰もいないことを確認しながら次々と様々な部屋を探索していく。
「無い……」
 アスカが漏らした呟きはユイの耳にも届いていた。
「何がないの?」
 アスカは形の良い顎を右の人差し指の付け根で触れ、左手は腰に手を当てて何かを探っているように見えた。
「レイはいつも着ているパジャマとか、酷いときには下着なんかも部屋に散らかっているのに今日に限ってないんです。でも玄関に靴があったから先に家を出たとは考えにくいし、確かにさっきまで居たって気配が所々に残っている……」
 アスカはユイだけでなく自分自身に言い聞かせるように呟いていた。そして嫌な予感が頂点に達したらしく、少し顔を青ざめさせながら猛然と最後に調べていなかった場所へ、半分駆けるように歩いていった。
 ユイは何も言えずただ黙ってそれを見ているしかなかった。だがもちろん、冷や汗が一筋彼女の額を流れていたのはいうまでもないことだろう。アスカ以上に嫌な予感がしているユイである。ただしアスカとは違った意味で。
 アスカはシンジの部屋の前で一息深呼吸をして、意を決したように扉をわざと荒々しく開け放った。そしてユイが見ている前で硬直した。ユイの所からは死角でシンジの部屋の中が確認できないのだが、アスカの反応を見ている限りでは面白そうな――ではなくて大変ゆゆしき何かが起きているらしいという事だけは理解できた。アスカが口をパクパクとしているのは金魚が餌を欲しがっているようにも見えたが、別に朝食を抜いたからではない。目に映った光景にショックで口が勝手に開いてしまい、何か言おうとしているのだが肝心の声が出ないだけである。
 ただそれも3秒は続かなかった。今度は顔を赤く変色させたアスカが憤然と部屋に突入していったのだ。そして怒鳴り声が響き、あまりの大声に近所迷惑だと指摘すべきかどうかを考える間もなく聴覚を狂わされてしまったような気がしたユイだった。
「あんたたち、何やってんのよ!」
 ユイが部屋の中をのぞいた次の瞬間、けたましい平手打ちの音が家中に響き渡った。




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