聞き込みもそこそこにケンスケとトウジはシンジの姿を発見することができた。通りかかったところ偶然それらしい集団を見かけただけではあるが、シンジをカメラのフィルターで捕捉したことにかわりはない。シンジまでの距離は30メートルといったところだろうか。
 その僅か30メートル足らずの間に数人の人間が立ちふさがっていた。というよりもシンジの前に立ちふさがっている、といった方が正しいだろう。トウジの目にもケンスケのカメラにも数人の男子生徒おぼしき人々の後ろ姿だけが見えていたからである。
 トウジがそのまま無造作に近づいていこうとしたのをケンスケが止めた。どうやら雰囲気は穏やかではないように見えたからだった。トウジもケンスケに指摘されてよく雰囲気を観察したところ、どうやらシンジは絡まれている、という状態に置かれてしまっているようだ。トウジは考え込んだ。といっても時間にすれば2、3秒のことだった。それでもトウジにしては珍しく思慮を巡らしていたのである。
 何かを決意したような顔を見て、ケンスケは慌ててトウジの肩を押さえた。
「待てトウジ。おとなしく見てるんだ」
「ケンスケ、おつむがいかれたんちゃうか? ここで助けんで何が友達や」
 既にトウジの鼻息は荒い。どうやらシンジが一方的にやられてしまう事を予測しての、未然の予防措置に動こうとしているのだろう。それくらいはケンスケにもわかるが、論より証拠とばかりにトウジの眼前にカメラを押しつけた。
「音感を最大にしてある。少しは向こうの会話が聞こえるだろ? よく聞いてみろよ」
「?」
 納得した様子はなかったが、それでもトウジは素直にケンスケの言葉に従った。カメラに耳を近づけようとするとケンスケがイヤホンを差し出した。それを使ってもっとよく聞こえるようにしろ、ということらしい。
 イヤホンを使ってもボソボソとした声にしか聞こえないが、会話の内容はクリアに聞こえるようになった。
 暫く聞いていたが、トウジはシンジを見つけたときよりも険しく顔を曇らせた。










「碇シンジ、お前に話がある」
 シンジが振り返った先には、明らかに非友好的な視線を放ち続けている数人の男子生徒達が立ち塞がっていた。シンジは反射的に身構えたが、彼らの身なりや立ち振る舞い方から、どうやら金銭を巻き上げるとか暴力を振るうとかいった類の話ではないらしい、ということは察することができた。
 シンジはつま先の方面にかけていた重心を心持ちゆるめた。しかし警戒は解いていない。いつでも走って逃げるだけの体制はまだ整ったままだった。
 話し掛けてきた男子生徒はシンジより頭一つ高い。必然的に見下ろされることになるが、冷めているのか見下しているのか判断が付きかねるような、感情のこもらない目線だった。全身を舐めるように浴びているようで、シンジは居心地の悪さを感じずにはいられない。だが男子生徒は意に介したふうもなく、一言付いてきてくれと言って、周りの男子生徒達を先導して歩き始めた。
 シンジは一瞬このまま逃げようかどうか迷ったが、話しかけてきた男子生徒以外の数人は自分を監視するように見ているのに気が付き、それを断念するしか選択肢が残っていないことにも気づいた。
 集団はシンジの歩調に会わせるように決して急いだり遅くしたりせず、均等な感覚を保つように忍耐強く歩幅を調整している。シンジにしてみればそれが逆に不安感を増幅させた。威圧的だったり挑発的だったりするならシンジは素直に後を付いて歩いたりはしなかったのだろう。
 しかしながら、今回のようにある程度紳士的に出られるとなぜかノーと言えなかった。不安がないわけではないのに、逃げようとは思えない。逃げたいと思ったとしても足が所有者の意に反して動かなかっただろう。
 シンジの足は不本意ながら集団と共に動き、お決まりのように人影の少ない場所へと誘導されていった。










 のらりくらりと生きてきた。
 今までなら非難されずにすんできただろうし、これからもそうだと信じて疑わなかった。そこに強烈な平手打ちを食らわせたのは綾波レイその人であり、影響を受けた惣流・アスカ・ラングレー嬢でもあった。しかし、それは痛みではなく、ショックの大きさだけがシンジの中に残った。
 2人とも好きだと言ってくれた。
 ただただ純粋に嬉しかった。そして苦しさもどこかで感じていた。
 好きだといってもらえる。その立場にあぐらをかき続けようと思っているわけでもないのに、心がまだそれに追いついていかないでいた。それが負い目となり、シンジの心をいつも少しづつ圧迫していたのだ。
「好き」
 文字にすればわずか2文字分しかない感情。ちっぽけな言葉が持つ大きな意味は、まだまだシンジには果てしなく遠くに感じられて、それに追いつけないでいることがもどかしくすらある。
 シンジにすれば、自分自身で混乱しているので釈明の仕様がない。
「このままでいいわけないじゃないか」
 これは苦し紛れの弁明でもなんでもなく、彼の閉鎖的な心理から生まれた偽らざる本心なのである。今の立場でいることがどれほど二人を傷つけ、苦しめるかくらいはわきまえているつもりだった。それでも2人に対しての感情を、言葉でも感じる段階でも表すことができないでいる。大切だと思ってもいるし、かけがえのない存在だと心の奥底から思っているのに、明らかに「これが恋愛感情なんです」と言い切れるだけのエッセンスが足りなかった。
 あと少しで……。
 そこで足踏みをしているような気すらする。あと一歩、何かきっかけさえあれば踏み出せそうな距離なのに、それが断崖絶壁でもはさんでいるかのように果てしなく遠い。
「傍から見ればさぞ自分はいい立場に見えるだろうな……」
 このようなシンジの自虐は至極当然であろう。当事者たるレイやアスカも、客観的に見れば同じような発言をしてしまわないかぎり、他になんといえばよいのかわからず、語彙を総動員させなければならないだろう。
 彼女たちはシンジのことを他の誰よりもよくわかっている。特にアスカなどはレイよりはるかに年季が違う分だけ、我が事のようにシンジの葛藤を理解していた。アスカ自身、レイというきっかけがなかったら、周りの冷やかしや揶揄に対して平然でいられるはずもなく、今のように感情をオープンにしておくことなどできようはずもなかった。それは負けず嫌いな彼女でも認めおかない訳にはいかない。
 レイがいなければ、今でも心の奥へ感情を押し殺しつづけていただろう。そして意地を張りつづけ、シンジとの日常をいつまでも続く当然のものだと錯覚し続けていただろう。誰を好きだと自覚しているときのほうが楽しくて、思いを押し込めているときの不満より、相手の返事がはっきりしないときの不満のほうが怖いけど喜びを何倍にも増幅させてくれるものだ、と気がつかなかっただろう。全ては「だろう」という仮定である以上、無意味には違いないのだが。
 しかし少なくとも、レイの来訪というきっかけがあった事実には変更が効かない。そこから始まった、新しい日常もまた同様に既に受け入れることができた。
 だがシンジはよっぽどのことがない限り、残酷な選択に繋がる感情を知覚するなどできるはずもない。14歳の精神では困難すぎる判断に違いなく、彼の顔が少し疲れて見えるのは気が弱いせいでも演技でもない。事実を突きつけられ困惑しているからなのだ。
 アスカもレイも時間が解決してくれるだろうと思っている。焦っても仕方がないことだし、事実にシンジの精神が追いつければ、そのとき下された判断を受け入れることはできると思っていた。選ばれなかったとして、それが悔しくても、そしてなにより哀しくても、シンジや選ばれた当人を怨恨の対称にしたりすることはない。ひっそりと姿を消していこう。そう覚悟しないと、何事も臆病な方向へ思考を誘導してしまうことに繋がってしまう。
 勝ち目が十分にあると信じて疑っていないアスカでもそんなふうに考えている。もちろんアスカやレイは口に出してシンジに喋ってはいないが、感受性の高いシンジには黙っていてもわかってしまうのだ。
 普段は「好き」と口に出して言わないアスカだし、「シンちゃんが好き」とレイはいわない。ただ言わないだけなのだ。なぜ言わないのかとヒカリに訊かれたとき、アスカは「一回言ってるから十分。もう一度言えっていうんなら、別に言えるわよ。恥ずかしいわけじゃないから」と平然としていた。一方のレイも「照れくさいけどさ、必要なときにはいつでも言えるよ。本心だもん」と言い切っている。
 そこまで想ってくれているからこそシンジは苦しむ。二人とも本当に大切だと思っているから頭を抱える。一緒にいたいと思うから逃げたくなるのだ。
 今のままでいたい。しかし今のままでいいはずがない。
 二つのジレンマを抱え、どの選択肢も痛みを伴う道しか残されていなかった。
 シンジはまだ逃げていた。まだそれは許されるのだと思っていた。遠くない未来において、それは許されなくなるだろう。そのときまでにはチャンスができているか、それとも自然と判断が下せるようになっているかもしれない。
 好きだという感情を見つけること。それを妨げている原因は一つでもなく、また同一方向を向いているわけでもない。てんでバラバラな要因が絡み合って、今のシンジの苦悩を織り上げているのだから。










 シンジがなかば自棄気味に反抗的な態度をとったからといって、責められる原因があるとは思えなかった。だが事情を理解し得ぬ人間、まったく知らない少年らにとっては「生意気なやつがもっと憎たらしくなった」としか映らなかった。
「だから言ってるでしょう。今の僕にはそんなこと、どうでもいい問題なんですよ」
 シンジは言い捨てた。言葉を吐き捨てるという形容がこれほどまでに行動と一致することはまれなのだろうが、それは同時に身の危険を増大させる行為とも密接な関係にあった。はき捨てられた言葉を受け取った者は、精神の均衡と平穏を崩壊させてしまうことのほうが、保つよりも遥かに簡単だからである。
 シンジを取り囲む集団からある種の熱気が巻き起こった。
 それを代表した男子生徒が手で制する。彼の顔もやや紅潮しているが、彼以外の生徒よりも感情を行動に出さない術はわきまえていた。
「つまり君は綾波レイの好意も、惣流アスカの秘めた感情も、必要のないものだ、と言い切るんだね?」
「そこまでは言ってません。でも、今の僕に重たすぎる好意であるのも確かです。2人には申し訳ないとは思ってる。けど、彼女たちは大切な感情を浪費しているようなものなんだ」
 シンジは心底申し訳なさそうに、伏目がちに言った。だが回りの人間は搾り出されたその言葉の真意を理解できるはずもなく、立ち上った熱気は殺意にとって換わられてしまう。
「何様のつもりだ、お前?」
 代表していた男子の口調が突然蔑みを帯びた。わずかな距離をシンジが反応するよりも速く詰めると、あっという間に胸倉をつかみ捻りあげていた。
「お前は自分のことをごみ箱だと思っているならそれでいいかもしれないけどな、お前を好きだといってるあの2人は誰よりも哀れなんだぞ。報われることがない想いがどんなに苦しいものかなんて、浪費されてる人間には理解できないだろうな」
 シンジは見下されることより哀れみを向けられるのが怖くて、彼の目を見返せなかった。
「はっ、そんな哀れな2人に本気で好意を寄せている俺たちはもっとバカだろうよ。けどな、バカの下にもっとバカなやつがいるなんて思うなよ。お前がどれだけ悩んでいるのか苦しんでいるのか何も考えていないのかは知ったこっちゃない。俺たちはあきらめ悪いんだ。だから要求しに来たんだ」
 取り囲んでいた生徒たちからは殺気だったものは薄れていた。やはり彼らにも冷静な人間が見せる怒りが驚きだったらしく、一様に表情のカンバスを驚愕色で染めている。
「いいか? お前が選べないんならさっさと二人を自由にしてやれ。繋ぎとめておくほうが、待たせるよりもよっぽどいいんだからな。楽しいからっていう理由で曖昧なままにしておくなんて最低だよ、お前」
 今度は彼が吐き捨て、シンジを突き放した。シンジの体は重力と慣性に逆らわず、アスファルトが背中を無慈悲に打ちつける。
 彼は手で合図して、集団を率いて立ち去っていった。
 最後に一人が「一人だけいい目を見やがって」と捨て台詞を残していった。
「……………」
 シンジは口を動かした。
 しかしそれは、ほぼ全てを捉えていたケンスケのカメラにも届かない。だからシンジのつぶやきは、シンジ自身しか聞くことができなかった。
 彼は悔しそうにコンクリートをたたきつけた。何度も何度も殴りつづけ、一心不乱に殴りつづけた。トウジが飛んできて、彼を張り倒すように押さえつけるまでやめなかった。
 シンジは聞こえていない誰かに向かってこう言ったのだ。

 他人にわかってたまるか、と。










 夕日に照らされると風すらも紅に染まっていくようで、アスカは坂道の途中で目を細めながら沈み行く太陽を眺めている。吹き抜ける風は美しさとは裏腹に生暖かさが不快感を、適度を超えた強さが嫌らしさを感じさせていた。
 落葉樹は年中青々と茂っているせいか、枯葉道を歩くといった四季折々の風情をアスカは見聞でしか知らず、実際に体験したことはない。今現在復活しつつある日本特有の四季とはこれから初めて体験するもので、唯一世界が残してくれた夏でさえ、かつてのものとは若干違うのである。うるさいほど泣き叫んでいたセミの声は山の中に入らないと聞こえてこない。蚊という生物は年中人間の血を吸っていたのではない。スイカはクリスマスに食べるものではないし、入道雲は初夏以降にしか見られなかったものなのだ。
「夕焼〜け小焼け〜の赤とんぼ〜…、か」
 古い童謡をハミングしながら、まだ見たことがない秋を想像している自分が相当センチメンタルになっていると、アスカは妙な感慨にとらわれていた。生ぬるい風が素肌をなでていき、紅茶色の髪を柔らかく揺らす。斜陽の光はアスカの髪をよりいっそう輝かせ、儚げに見える雰囲気は実年齢を数年先取りしているようで美しかった。しかしそれを見ている人間は誰もいない。一番見ていてほしい少年はそばにはいないのだ。15年程前には春先と呼べた時期までは常に隣にいたような気がする。今日のように一人で帰るような日が皆無だったわけではないが、片方がよっぽど遅くなったりしない限りは暗黙のうちに待ち合わせていたものだった。
 ひとつのきっかけがそれを壊したともいえる。だが再構築された生活は不満よりも充実が勝っているのだから、アスカは残念には思えても後悔したり、振り返って懐かしむ理由は表立って対抗論を主張したりしない。
 アスカの深層に日本人的な部分があるとすれば、夕日を見て秋のイメージを喚起させたのはその古き日本人の血であろう。
 沈んでいく太陽を見ながら、今日一日の回想シーンを頭の中で整理だててファイリングしていく作業は不毛のように思えつつも、中断させることはおろか、止めることなど不可能であった。
 レイのキス未遂。いくら相手が無防備な体制だったとはいえ、自分が同じことができるかといわれれば否定形で答えざるをえない。アスカにその勇気はなかった。好きだという心に偽りがあるかどうかではなく、今まで積み上げてきた時間が羞恥心と躊躇いを絶妙なブレンドを作り上げ、苦々しい認識をアスカに飲ませつづけている。アスカがいくら砂糖を入れたところでほとんど甘味を見せないその苦い液体は、アスカのこれからを暗示しているようでもあった。
 仮にシンジがアスカを選んだとして、はたして自分がシンジの要求に応えられるか。今すぐ、さしあたってもう数年はそんなことはないと思えるのだが、いざというときに拒否反応が鎌首をもたげないとは言い切れない状態ではある。
 何とかしなければいけないとは思う。しかしそれは時と自分の意識改革、その二つがそろって初めて解決されるべき問題であろう。
 焦りがないといえば嘘になる。積極性ではレイに劣っているのだから、共有してきた時間という遺産の上にあぐらをかき続けていいわけはなかった。媚びているようではダメだ。あくまでシンジが自主的に、必然的に自分を選ぶようでなければいけないんだ。アスカはそう考えている。
 だからこそ積極と消極の狭間で揺れているのだし、これからどうしていけばよいのかを正直見失いかけているのである。シンジに対しての接し方が今までどおりでよいのか悪いのか。どの方法がベターなのか。
 相談できない人がいないわけではなかったが、他人の力を頼る前に自分の力で考え抜いてからにしたいと思っていた。ヒカリなどに聞けば親身になって一緒に考えてくれただろうし、後々のからかいを耐える覚悟があれば担任葛城ミサト教諭でも構わない。碇ユイはやわらかく不干渉を主張するかもしれないが、母親である惣流キョウコは穏やかに経験を語ってくれるかもしれない。頼るべき人間がレイに比べて多いのは感謝しなければならない環境なのである。
 その環境に浸ることをまず拒否したアスカは、まるで先の薄暗い迷路の中に踏み込んでいるようなものだった。それなのにわずかな憂いは彼女の容姿を一段と際立たせ、同じ中学の男子下級生は憧れの目を向け、同級生は眩しさを覚え、上級生は動悸を常に乱していた。
 彼らの大半は憧れ的な感情だが、本気で恋愛感情を持っている人間も少ないわけではなかった。さらにその半数が彼女の容姿よりも遥かに苛烈な性格を知っていてなお熱っぽい視線を向けている事実は、アスカの自覚の外で十分驚愕に値するのである。
 アスカの後ろに長い影が伸びていた。影踏みをしていれば圧倒的に不利に違いないその影の長さがどこか物悲しい。車のライトに照らされて足が長く見えた足長おじさんのように、惣流アスカの永遠の従者は一日で身長を一番長くしていた。
 やがて夜の闇に溶けるはずの影は、ゆっくりと足を運ぶアスカを忠実に再現している。一歩一歩坂道を上る足取りは律動的ではあるが、いつもよりは精彩を欠いていた。それも仕方がないことであろう。
 抱きつかれてしまった、まったくの不注意。あれがもし唇を狙ってきていたら、と想像しただけで身の毛が総立ちしてしまいそうな心境である。意表を衝かれていれば、事実先ほどそうだっただけに間違いなくファーストキスを見も知らぬ男子に奪われてしまっただろう。ヒカリのように潔癖症でもなければ一般女子のように色恋沙汰に関してキレイキタナイをハッキリと区別するほど幼くもないが、それでもなんとなく大切なものだと思ってしまうのは少女として必然かつ当然のことである。たとえ当人が口や理性で否定しても、本能的な部分は肯定してしまうのだ。
 思い出した瞬間、歯がゆさがこみ上げてきて無性に腹立たしくなる。髪をかきむしりたい衝動に駆られながらも強い自制で何とか抑えたが、次に同じ衝動が呼び覚まされたときに実行に移してしまわないという確約はできそうもなかった。
 苛立ちをぶつけるように街路樹の葉を引きちぎって投げる。針葉樹の一種であるこの木の葉っぱは硬い上に光沢があり、小さな緑が艶やかに光りながらアスカの周りを取り囲むように舞い落ちていった。アスカにとって心地よくない風もそれを後押しし、ひらひらと舞うように彼女の視界を飛び去っていく。なびく髪を軽く抑えながら、アスカは不快感を少しずつ風に流すように身を任せていた。
「バカシンジのキス……、か」
 もしかしたら、それが一番欲しかったのかもしれない。後ろめたい動機があるのは分かっていても、今はシンジの存在を側に感じられる何かが欲しい、欲しくてたまらない。
 彼女は自分自身、狂おしい想いを暴走させないだけの自制心は人よりあると思っていた。だが、それがいつのまにか過去形になる日がくるような気がして、彼女の心は晴れ空を見せるまでの、ほんの僅かな猶予が求められているようでもあった。
 赤い陽が、目に痛いな……。
 ふとぼやけた視界はそのせいだ、とアスカは思いこむことにした。
 そうしないと感情の液体化が防げそうになかった。










 主役たちは普通の道を通れるとしても、追いかけている人間はそうは行かないものである。わき道に隠れながら、同じ道の物陰に潜みながら必要以上の体力を費やして見失わないように努力しなければならない。一定の距離を保つのはさらに困難を極めるが、トウジとケンスケはそれに完璧に近いくらいに成功していた。
 もっとも誤算としてはトウジがシンジの行動を止めに入ったことくらいである。あの時トウジは頭で考えるよりも早く物陰から飛び出していた。
 ブツブツと何かをつぶやいていたと思えば、いきなり強度で圧倒的に劣る握りこぶしでアスファルトにけんかを売ったシンジ。その動き自体は緩慢とも思えるスピードであったが、腕にこめられた力はまさしく本気以外何ものでもない。フルパワーで地面と衝突を繰り返す手の皮はわずか二回目にして血が噴出し、トウジが止めに入った五回目には赤で手と地面が染まっていた。シンジの白いシャツにも血痕の飛沫がいくつか残っており、腕を抑えたトウジの手のひらにもドロリとした感触が伝わってきた。
 シンジの細腕のどこにこれほどの力があったのか、トウジがそう思ってしまうほどシンジは本気で殴りつけていた。そのためトウジは基本的な膂力で勝りながらも、シンジの体と腕を両手で抑えなければならない。
「それくらいで止めとけや」
 トウジの口調は厳しくもどこか優しかった。痛々しく映るシンジの姿が、自然と彼にその言葉を言わせていた。
 お互い沈黙のまま時間だけが過ぎ、やがてシンジの体から急速に覇気と力が失われていく。
 ケンスケも録画を停止して二人に歩み寄った。
 トウジはケンスケに一瞥もくれずシンジを凝視していたが、脱力したシンジを見て目をそらしたい衝動に駆られ、それを紛らわせるために腕にこめられていた力を抜いた。開放されたシンジの腕はぺたりと地面に落ち微動だにしない。それでも心臓が生きていることを誇示するように、破れた血管からはまだ流出が続いている。
「ほら、見せてみろ」
 ケンスケはシンジの隣に膝をつき、彼の手を取って傷を見る。しばらく傷口の様子を見た後、顔をしかめ、
「トウジ、そこのコンビニで水を買って来てくれ」
 と言った。トウジは無言で頷いて踵を返した。
 トウジの足跡が遠ざかると再び静寂が場を包み込む。シンジは壊れたロボットのようにうなだれた体勢のまま、まったく動きがない。ほんのわずかな胸の膨張と収縮がなければ、生を否定している精巧な蝋人形との見分けがつかなかっただろう。
 ケンスケは肩に下げていたカバンから消毒薬や包帯を取り出した。どれもこれも軍隊式にコンパクトに詰め込まれていたらしく、容量はきわめて小さいものである。ミリタリーマニアの面目躍如であろう。
「悪いとは思うけど、途中から聞かせてもらったよ」
 一瞬シンジの体が強張ったような気がしたが、ケンスケは構わずに続けた。
「どうせ俺たちが何か言えるような問題じゃないだろうし、誰にも言わないけど……。でもな、シンジ。一人で全部背負えるほど人間は強くない。くじけたときとか、落ち込んだときとか、そんな時のために、友達ってのは存在価値があるんだからな。それだけは覚えておいてくれ」
 小さな子供に言って聞かせるように、ケンスケはゆっくりと言葉を繋げていった。まるでシンジの中に言葉が浸透していくのを確かめているかのように。
 やかましい足音を鳴らしながらトウジが駆け寄ってきた。
「ほれ、奢りや」
 トウジは軽口のつもりで言ったのだろうが、丁重に無視された。
 ケンスケは1.5リットルのペットボトルをトウジの手からもぎ取ると、シンジの腕に惜しみなく注いた。そのとき初めてシンジの口から「うっ」っと痛みを堪える声が漏れ、顔が苦痛に少しゆがんだ。しかしそれ以上の人間らしい反応はない。うなだれて、長くもない髪の毛が目元を覆ったまま。そこから何らかの意思は感じられなかった。
 血が流れ、砂が落ち、無残な傷跡があらわになる。トウジは見ているだけで、自分が苦痛を感じているような気分になり、直視することができなかった。しかしケンスケは淡々と消毒したりガーゼで傷をぬぐったりと、感情を表に出さずに作業を続けた。
「ま、こんなものか」
 ケンスケの処置は応急手当にしては十分すぎるほどだった。それでもシンジの傷はしばらく残るだろう、ケンスケはそう思った。立ち上がり、シンジを見下ろす格好になっても、その目には蔑みも哀れみもなかった。あったものはただひとつ。
 シンジの貴重な友人はシンジを立ち上がらせると、むりやり表通りの往来まで引っ張っていき、バスターミナルのそばのベンチに強引に座らせた。それ以上はシンジのためにならないと判断したケンスケが、ジャージ少年を促しながら挨拶を残してさっていった。
「じゃな、シンジ」
 促され、トウジも気持ちを切り替えて明るく努めた声を出した。
「ほな、明日学校でな」
 心配がすべて解消されたわけではないが、トウジとケンスケにはやるべきことが残されていたので長居はできなかったのである。
 歩いてすぐのショッピングモールまで来て二人は振り返り、ベンチに深く座り込んだままの少年を見つめなおした。
「たぶん大丈夫だよ、あれで」
 ケンスケが友人の気持ちを先取って言った。完全に納得はしていない表情ではあったが、トウジもそれで満足すべきであると感じたらしく、一つ大きく首を縦に振った。
「そやな、やらなあかんことが控えとるんや。はよ片づけてしまうか」
「そうそう。早速尾行第二段開始といこう!」
 ニヤリと笑ったケンスケのメガネが太陽光と蛍光灯の二種類の光を浴び、二つの光線が混じったレンズは奇妙なほど怪しく輝いている。トウジもつられるように笑ったが、彼の場合はどこか残忍めいた笑みであった。
「相田屋、おぬしも悪よのう」
「ほっほっほ。お代官様にはかないませぬ」
 バカなことを言いつつも、彼らは切り替わった目標群を見逃してはいない。
 15分後、脚本鈴原トウジ、監督相田ケンスケという二人の演出家は、この街の一角で後に伝説になる事件を引き起こす。その珍事件はスポーツ紙だけでなく一般誌の三面記事にすらなったのだが、まだ掲載されることになる当人たちは自らの運命を知ってはいなかった。




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