「アスカ?」
 振り返ったシンジの顔は泣き笑いがころころと入れ替わり、表情は何ともいえない複雑なものになってしまっていた。まったく予期しない展開だけに、シンジは驚きもひとしおだったのだろう。しかし、どこかで納得している自分がいることにも気がつき、さらに驚くことにもなる。
 そうだよ、この場所は僕とアスカの特別な場所なんだから……。
 よくよく考えればシンジとアスカの二人だけがこの場所を思い出の場所としている上、夕暮れが終わりかけたこの時間、小さな子供たちはすでに家の中で母親に今日何があったかを興奮気味の口調で話しているはずだった。それはどこにでもある光景。アスカやシンジが例外だったとしても。
 シンジから見てもアスカの顔は意表を衝かれたように見えたし、事実アスカは大きく目をみはってシンジを見つめ返しているのだ。
 西空は大きく暮れなずむ太陽の色で染められている。しかしシンジたちの頭上では薄暗い夜の闇が主役交代を迫ってきていた。東の星空には雲に隠れていた一番星が瞬き始める時間に遊びつづけていたのは、まだ小さかった頃の碇シンジと惣流アスカの二人だけだっただろう。
 アスカの足は止まったままだった。普段は考えたことも意識したこともなかったのに、今に限ってなぜか恥ずかしい。
「どうしたの?」
 シンジは今見せたばかりの表情を隠すように、いつもどおりの穏やかな口調でいつもどおりの反応をしてみせる。
 アスカは肺の中の空気を全てからにするほど大きなため息をつき、シンジの視線から避けるように顔をそむけた。
「気が向いたから来ただけよ。それよりあんたこそこんなところで何してんの」
「うん、僕も一緒。なんとなくこの公園に来たくなったから……」
 シンジは中身のない笑みを浮かべ、どこか哀しげに声を出した。アスカが視線を避けたことによって、なんとなく疎外感を覚えたからでもあったが、彼自身、彼女に対して大きな負債を抱えていることが同じ行動を取らせる結果になった。
 アスカが視界になるべく入らないように顔をそむけながら、そう言って席を立とうとする。シンジのカバンに彼の手が伸びたところで、アスカは驚かねばならなかった。
「あ、」
 そう声が漏れていたのは自分の口からだったからだ。シンジが「どうしたの?」と顔でいっているのがアスカの網膜に飛び込んでくる。
 きっちり一秒痛いくらいに手に持ったカバンの柄を握り締め、それを決意までの準備期間としたアスカは、毅然と顔を上げてシンジをまっすぐに見据え離さない。シンジもアスカの雰囲気が入れ替わったように感じていたが、すぐにこの場を離れなければと歩き出した。出口はアスカの後ろにしかない。たいして大きくもない公園だっただけに、アスカとすれ違わなければならない。避けようがなかった。
「待って」
 アスカが声を掛けたのは、シンジが彼女の真横よりも少し進んだところでだった。シンジは振り返らず、いつでも歩き出せるように公園の出口に体を向けたままである。
「何?」
「話があるの」
「僕にはないよ」
 シンジは切って捨てた。
 アスカは一瞬体から怒気を立ち上らせたが、シンジは意に介した様子もなく無気力に出口に建っている公園名の石柱を眺めている。そのまま右足を踏み出そうとしたシンジの左腕を、アスカの手が逃がさないと言いたげに握り締めた。
 シンジの首が少し落ち、アスカには我慢が切れてうなだれたように見えた。
 そのまま時間だけが過ぎ、固まったように二人は身動き一つしない。シンジの横顔にアスカの視線は注がれたまま、闇が緩やかだが確実に時間の存在を証明すべく勢力を伸ばし続けていた。
 普段は決して気が長いともいえないアスカだが、この時ばかりは苦痛を感じるどころか今までにない心の平穏を感じていた。まるで風のない水面のように、どこまでも清んで穏やかなのである。
「……わかった。ごめん。だから手、離して」
 アスカは言われたとおりにした。離した瞬間に走って逃げられるような気もしたが、それは杞憂に終わった。シンジは握られた腕の部分を右手でさすりながら、大きなため息をつき、左右に首を小さく振った。
 それがシンジの敗北宣言だった。







Neon Genesis EVANGELION
Please,Never ending dream

EPISODE:7 "Phantom in midsummer's night"







 少年と少女が同じ星空を見上げていた。今光り輝いている満点の星々は、この星が再生を余儀なくされたあの事件以来、旧世紀よりも多くのその姿を人々に見せることはなくなっている。しかし新世紀になって生まれた彼らには、今見える宇宙の姿が本当の姿なのである。物心ついた頃からさそり座のアンタレスは一等星ではない。かつての赤色巨星を「薄暗い陰気な星だ」とアスカは感じていた。500年も前に生まれた光をその目にしながらも、大気状態と曲がった地軸で狂った星座たちは何の感慨ももたらさないでいる。世界復興に目を向けた人類は自分たちのことだけで精一杯で、星空の新規定を話し合いのテーブルに乗せる余裕は預金残高の中にはない。
 しかしそれはアスカやアンタレスの責任ではない。資料と違うからといって責められる理由も責めなければならない理由もなく、ただ知識としてアスカの中に収まっていればよいだけのことだった。
 シンジは頭の後ろで腕を組みゆっくりと流れる雲と星たちに目を向けているが、それらを見てはいない。シンジの意識は外界からの情報を拒否はしていないが、同時に受け入れる場所を一ヶ所と限定しているのである。
 限定対象の少女はシンジの傍らに片膝を立て、もう片方を伸ばして座っていた。時々夜露で湿った芝生を千切って放り投げている。軽い力で空中に投げ出された草の切れ端は、ひらひらと桜の花びらのように風に流され丘を滑り降りていく。彼らの足の先には徐々に勾配がついているが、寝転がっている場所は滑り落ちるほどではない。落ちた先には道路が横たわっているが、その直前には金網があった。
 アスカは街頭に照らされた青い金網の歪みを懐かしそうに見つめた。ダンボールの切れ端をソリ代わりにして滑り降りたことがある。あの頃、シンジが顔から金網の中へダイブしていった名残だった。顔に平行四辺形の赤い跡をいくつも作りながら、シンジが必死に涙を耐えていた顔。今にも泣き出しそうだった表情が、閉じた瞼の中で浮かび上がってくる。
 再び目を開けた先には街の光と自分たちの生きてきた家が見え、背後の山から吹き降りされてくる風になびく髪の毛を右手で優しくおさえた。
「またこうして、2人でここにくるなんて思わなかったわ」
「…………」
 アスカが切り出してもシンジは受け流してしまう。しかし、このところずいぶんと我慢強くなったアスカは怒気を立ち昇らせたりしない。確かに少々ムッとしてしまうが、相手はシンジだと思うと辛抱できた。
 どうしてだろう、と反芻してみる。
 結局は一つのところへ戻っていってしまうが、それが良いことなのか、それとも悪いことなのか……。
 一方のシンジだが、実のところは『心に余裕が無い』ですべて説明できてしまう心理状態だった。
 隣にアスカがいる。それだけで後ろめたい上に心苦しく、居心地が悪い。先ほどの少年たちが、現在のシンジの心の中を覗き見るようなことがあれば、再び囲まれて五体満足で帰ってこられるかどうかは甚だ疑問の残るところだ。もっとも、そこまでシンジを追い詰めているのが自分たちだ、という認識は持っていないであろう。
 普段なら、少なくとも明日になれば、アスカに対して負い目を感じることも無かったかもしれない。だが、今は決定的にタイミングが悪すぎた。
「ねえ、いつもに増して元気がないのはどうして? 何か変よ」
 だろうね、とシンジは思った。自分がアスカの立場でも同じセリフを相手に対して言うに決まっている。それだけに、なんと答えればいいかわかっているが、口をついては出てこなかった。
『別に、なんでもないよ』
 たとえ相手が納得しなくてもそう言えばいいはずなのだが、今は虚勢を張ることもできそうにない。その元気がない。本音を言うのはもっと怖い。
 一際大きなため息がシンジから吐き出される。疲労と苦悩が入り混じった、灰色のため息だった。
「ごめん。上手く言えない」
 アスカは初めからそう言われるのがわかっていたように、すぐに言葉を返してきた。
「私だって理論整然と話してもらえるなんて思ってないわよ。何かあったんでしょ? そうじゃないと、あんたのその暗さ、説明の付けようがないわ。そうなったきっかけくらいは教えてくれてもいいんじゃない?」
 アスカの声は優しい。幼子をあやす姉のようだった。
「…………」
 シンジは黙り込んだ。なんとなくこうしなくちゃいけない、と思ったことがあった。でも、それを実行に移すべきかどうかを少し迷う。
 アスカを怒らせたり、傷つけたりするんじゃないか。
 だが、迷って何もせずに後悔するよりは、すべてをうち明けておくべきだとも思った。後で悔やむなら、やり残したことがないようにしてからにしたい。
「ごめん」
「何で謝るのよ」
 アスカは苦笑を漏らす。
「僕は謝らなくちゃいけないと思ったから……。僕だって、このままで良いわけないってわかってる。わかってるんだ」
 シンジは吐き捨てるように言った。それを聞いて、アスカの表情も少し硬くなる。
「でも、自分で整理できもしないのに、何かしていいわけないじゃないか。アスカだって、そう思うだろ?」
 激情のあとに訪れるのは後悔と相場が決まっている。シンジにもそれは等しくやってきた。言い終わったあと、ハッとしたように顔を上げる。しかしすぐに俯いてしまった。
「……ごめん、こんなこと聞いちゃいけないよね。やっぱりダメなんだ、僕は」
 アスカに背を向けた。消え入りそうな声で、それでいて泣き出しそうな声。
「バカ」
「そうだよね。バカなんだよ」
「違うわ。私が、よ」
「え?」
 シンジは豆鉄砲を食らった鳩のように、目を丸くしてアスカの方を見た。
 フフフ、とアスカは笑っていた。
「あんたがバカなら、私は大バカよ。だってそうじゃない? あんたみたいなの、好きになっちゃってるんだから」
 アスカはシンジの方に少し目線をよこしたが、すぐに西空に向け直した。空の九割は濃い青色に染まっている。しかし、西空だけは赤が混じった空模様が残っていた。
「なんとなくだけど、シンジが何を言いよどんでいるのかくらい、私にもわかるわ。どうして言いにくいのか、もね」
 アスカは眉をひそめる。
「シンジ、こっちむいて」
 気まずさを耐えて、シンジは体を起こした。しかし目線は何となくあわせづらいらしく、体の向きと目線はアスカに向かってない。
「シンジ」
 語調を強くされ、仕方ないという素振りで顔だけアスカの方に向ける。そこには何か、懇願するような表情があった。これ以上責めないでくれ、とでも言いたげな顔だった。
「私だって辛いわ。いけないことかもしれないけど、レイがいなかったら、って思うこともある。そうすれば、シンジは私だけを見ていただろうって。けどね、あの子がいたから『ただの幼なじみ』にサヨナラできたんだし、感謝もしてる。きっかけがなかったら、いつまで経ってもあのまま、意地を張り続けたかもしれない」
 アスカはこれが欲しかったんだ、と思った。シンジと二人きりでいる時間が、この数週間の激動の中で失われていた、今まで当たり前だと思っていた二人だけの時間が欲しかったのだ。
 これからは減ることはあっても、増えることはないような気がする。だからこそ、こうして向き合っている時間が、今のアスカには宝石よりも輝いているはずだった。
「確かにね、私は短気ですぐ手も出るわ。シンジに疎まれたって仕方ないかもしれない。けどね、」
 ふっと笑みを口の端に浮かべ、シンジを見た。シンジも気配を感じてアスカを見る。その瞬間、アスカはようやく二人の大切な部分が繋がったような気がした。シンジも急に懐かしいような切なさを感じて、息が少し詰まった。
「これだけは忘れないで。シンジの側に一番長くいたのは私。シンジを一番見てきたのも私。今、シンジを一番好きなのは私。誰にも負けないわ」
 シンジはもっと息苦しくなった。アスカの自信に満ちた目が、言葉が、その表情が、すべてが眩しかった。
 自分にはできない。
 苦々しい実感が胸を迫り上がってくるようで、自分のふがいなさが情けなくて仕方なかった。
 ギリリと歯噛みするシンジ。それをアスカは何も言わなかった。
 何を言えばいいのだろう、とシンジは思った。今度は利害など関係なく、本当に頭が真っ白になってしまった。どうすればいい、僕は何を言えばいいんだ?
 しかし、結局落ち着くのはこの言葉しかなかった。
「……ごめん」
 アスカは、やっぱりね、という顔をした。それを見たシンジは、アスカが失望したのではないかと思い、言葉を荒くした。
「でも! ……でも、この前の事件で入院したとき思ったんだ。僕が目を覚ましたとき、アスカとレイの顔が僕のすぐ側にあったとき、本当は涙が出そうなくらい嬉しかった。アスカはあの時、『何笑ってるのよ』って言って、僕は『別に』って言ったよね?」
 アスカは一瞬とまどった表情をしたが、すぐに思い出したらしく、縦に首を振った。そこまで時間が過ぎているわけでもないし、あのあとのドタバタが印象深かったので、特にあの時は良く覚えていたのである。
「素っ気なく答えちゃったけど、僕はあの時、すごく二人が大切なんだって気がついたんだ。それが好きっていう感情なのかはまだわからないけど……、それが愛とか恋とかって感情なのかわからないけど……、でもたぶん、僕は二人のこと好きなんだよ」
 シンジの目に迷いはなかった。
 アスカの体に小さな歓喜の震えが走った。ハッと息をのみ、目が少し大きく見開かれる。驚いたような顔をしたアスカを見て、シンジはばつが悪そうな顔をした。
「友達として、とかかもしれないんだ。家族の延長みたいな感じで大切だから、なのかもしれない。その気持ちがどこから来て、どこにいくのかがハッキリしてからじゃないと、僕はアスカやレイの正面に立つことはできないと思ってる。少なくとも、二人が僕に対して持ってる感情と同じ気持ち、僕の中にあると実感できなきゃダメなんだよ……」
 そんなこと関係ない、と言いたかった。今すぐシンジに抱きついてしまいたい衝動にすら駆られた。しかし、アスカは息を落ち着かせて冷静になることを自分に課した。
 シンジの口からその言葉が聞けるのを、どれほどの時間、待っていただろう。大した時間ではないのに長く感じられてしまう。たとえそれが自分だけに向けられたものじゃなかったとしても、不完全なものでしかなかったとしても嬉しいものは嬉しかった。
 急に黙り込んでしまったアスカを、シンジは不安そうに見つめていた。しかし、気分を落ち着かせてからでないと、今の自分はどんなへまをやらかすかわからない、とアスカは思った。
 シンジは悩み過ぎなのよ、頭で考えずにフィーリングを優先させてもいいときがあるのよ、もっと気楽に考えなさいよ……。
 言いたいことはいくつも浮かんで消える。しかしそれも皆、陳腐なものにしか思えなかった。私は真面目に考えて迷ったり悩んだり、時には自分だけでなく人を傷つけることもある行動力のなさ、そのくせ肝心なところではカッコつけてやられてみたり、へなちょこなくせに泣けてくるようなセリフを吐いてみたりする、そんなシンジの全てが好き。好きなんだから、だから……。
「あの、さ」
 シンジは躊躇いがちに口を開いた。
「どう言えばいいのかわからないけど、僕はレイが来る前のアスカでもいいと思うんだ。別に僕のことをただの幼なじみだと思ってくれてもよかった。あ、でも、もちろん好きだっていってもらえた方が嬉しいよ。あ、そうじゃなくて、僕が言いたいのは……えーっと、……とにかく、僕は少し意地っ張りなくらいの方が、アスカらしい気がするんだ。僕を張り飛ばしたり、怒鳴ったり。僕のこと、好きでも嫌いでもいいから……あ、だめ、よくない。えっと、僕のこと好きでも、遠慮は、えっと、しないでいいよ。怒りたいときに怒ればいいし、叩きたくなったらビンタすればいい。僕も嫌だったらハッキリ言うようにするから」
 しどろもどろになりながら喋るシンジを見ながら、何バカなこと言ってるのよ、と思った。けど、そこには妙に嬉しさもあった。確かに、どこか最近は遠慮があったような気もするのだ。それをシンジはやめて欲しかったのだろう。おそらく、自分たちにしかわからない微妙な隙間を埋めたかったのだ。それはアスカにしても同じだった。しかしシンジの口から言ってもらわなければ、叶わぬ願いのまま終わっていたに違いない。
「ええ、そうする」
 それを聞いて、シンジはホッとしたようだった。アスカが横目で見たとき、明らかに胸をなで下ろしていた。
 シンジの言葉が緩急材の役割を果たしてくれたのもまた事実で、アスカは呼吸を整えることができた。
「あーあ、なんかさぁ、いまので気が抜けちゃった」
 アスカは四肢をグッと伸ばし、ごろんと寝転がった。シンジと二人で川の字になって、芝の上で寝そべるなんてどのくらい久しぶりなのか忘れてしまっている。心からの笑顔で、空の星を見上げていた。もう暗闇が全天を被ってしまったけど、星は輝いている。それだけでも十分に明るいわ、と思った。
「じゃ、今の私は、シンジから見ると大人しすぎるわけ?」
「そうでもないけど、前に比べたらね」
「酷い言われようね」
「そうかも」
 顔を見合わせ吹き出した。アスカもシンジも、声を上げて笑った。
 そうだ、これだ、この感じ。この、なんでもない関係が心地よかったんだ。
 お互い気がついていないが、シンジもアスカも同じことを考え、同じように感じていたからこそ笑いあえた瞬間だった。
「じゃ、今日でかわいいアスカともサヨナラかな」
 それはそれで、何となく惜しい気もするのだから、シンジもいい加減なものだ。だが、それでもいいと思った。変わらなきゃいけない時が来るまでは、今まで通りでいたい……。
「明日から覚悟しておくことね。ホントに遠慮しないから」
「う、うん」
 アスカの迫力のある言い様に、少し押されてしまうシンジ。
 そのまま時間が二人のスキマを埋めていった。相手が言い出すまではそこを動きたくなかった。そのくらい貴重な時間だということを、アスカもシンジも痛いほど感じていたのだ。
 シンジは目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。ゆっくりと肺の中を空にすると、夜空に自分が吸い込まれていくような浮遊感を体で受け止める。瞼を閉じても星空が見えそうだった。体中の力が抜けていく。大きな仕事をやり遂げたあとのような疲労があった。それを不快には感じなかった。
 沈黙が舞い降りてどのくらい時間が過ぎただろう。
 1分?
 それとも30秒にも満たない?
 そんな曖昧な世界で、シンジの右腕に何かが触れた。暖かい、と思ったのはアスカの指先だった。
 探るような指先は、やがてシンジの右手にたどり着いた。
 その瞬間、弾かれたようにシンジは体を起こした。だが左肩に思わぬ力が加わって、すぐに寝たままの体制に押し戻された。半タイミング遅れた、とシンジは思った。
 大きく目に映る世界を凝視するシンジの前で、アスカが潤んだ瞳をシンジに向けている。少し乱れた髪がアスカの頭をすっぽりと被ってなお余り、シンジの顔に少し触れていた。
「アスカ……」
「お願い。今だけは私のわがままを聞いて」
 アスカの声は囁くような甘い声だった。
 それを聞いて、胸が張り裂けそうなほど心臓が大きく脈打っていた。
 お互いの顔が、息がかかるほど近くにある。アスカの顔を間近で見ることなんて滅多にないことだった。それが、手を伸ばさなくてもすぐそこにあるなんて信じられなかった。だが、今ある全てが現実なのだ。学校の男子が羨むような状況が、実際自分の身に起こっている。
 シンジの右耳のすぐ横にアスカの左腕があった。アスカが煩わしそうに、右の髪を掻き上げる。だが余り効果はなく、すぐに元に戻ってしまう。だがその仕草が、シンジにはアスカを大人に見せた。今まで見たこともない色っぽさが、今のアスカには十分すぎるくらいにある。
 見つめ合っていたのは一呼吸分の時間もなかった。
 アスカは左腕を少しずつ折っていく。
 青い瞳が少しづつ、だが確実に近づいてくる。
 瞼がゆっくりと閉じられていく。
 これから何が起こるのかを正確に予測して、シンジも瞼を閉じた。
 最後に見えたのは、アスカの大人びた、穏やかで美しい顔。
「…………」
 唇にアスカの息が少しかかってドギマギしてしまう。
 ガサッと何かが動く音がした。茂みごと動いたような、そんな物音だった。
「…………ん?」
 シンジは、なんか変だな、と思った。
 反則なんじゃないか、という思いと好奇心が格闘を始めたが、数瞬の殴り合いの後、前者がノックアウトされた。
 シンジは戦々恐々、そっと目を開けた。
 そこにあったのは、呆気にとられた様子のアスカの顔だ。シンジの頭の後方を、信じられない、とでも言いたげに睨み付けていた。
 何があるんだと思うよりも早く、シンジを突き飛ばすようにアスカは立ち上がった。彼女の眼中には、すでにシンジの姿はないらしい。
 突き飛ばされた方のシンジも立ち上がりながら、アスカの視線の先を追った。
 人がいた。
 髪の毛や衣服の至る所に折れた木の枝や葉がくっついたままだった。払い落とさずに姿を見せたということは、どうやら相当慌てていたらしい。
「なんであんたがこんなところにいるのよ!」
 アスカが鼻息荒く言い放った。
 碧眼の少女を睨み返すように、レイもまた茶色い瞳をアスカに向けていた。




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