賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督 <第六世代>


一瞬の夢(小武)
改革開放の波が否応なく押し寄せる山西省の地方都市汾陽でスリを家業とする小武の孤独な日常そしてふと知り合ったカラオケ嬢メイメイとの甘い一瞬の夢を描く。
私のこれまでの中国映画に対するイメージ(貧しさ,重苦しさ,人間くささ)からすると少し異質の映画という気がする。しかし,この映画がベルリン国際映画祭最優秀新人監督賞を始め海外で数々の賞を取っている理由はなんだろう。
ラストシーンで捕まった小武が,警官が所用を済ます間,道ばたの電柱の支線に手錠の片方をつながれ一人で待たされるところで,通行人がまわりを取り囲みジロジロ見るシーンなどいかにも中国らしい。
映画の中にはこのような中国の日常がさりげない形でよく描けている。
(1997年中国・香港/監督:賈樟柯/出演:王宏偉(ワン・ホンウェイ)/2000.2.17横川シネマ)
プラットホーム(站台)
題名から,駅を舞台にした映画であろうと思っていたら,違っていた。「プラットホーム」とは,80年代を通して中国で大ヒットした歌の題名だそうだ。若者たちが何かを期待し,何かを探し求めながら旅を続ける,その出発点とも終着点ともなる場所をプラットホームにたとえている。映画の中では,河原で立ち往生した地方巡業中のトラックのカセットからこの歌が流れてきて,そのすぐ後,彼らが生まれて初めて本物の汽車を見るシーンの伏線ともなっている。
物語の舞台は,古い城壁の残る山西省の地方都市・汾陽(フェンヤン)。この街の文化劇団に所属する明亮(ミンリャン)と瑞娟(ルイジュエン),張軍(チャンジュン)と鐘萍(チョンピン)の二組の男女の愛と友情を軸に10年の時の流れを追う。
背景となる時代は,79年から91年ということだが,映画の中にはそんな説明はない。巡業中のトラックの荷台の上で明亮が「20年後には女房を7〜8人?」と不謹慎な歌を歌い,団長から詰問された時の会話の中に,20年後は2000年ということが出てくるのと,同じ頃にラジオから劉少奇の名誉回復(80年)のニュースが流れてくるので,映画のスタートがその前年の冬だったから79年か,という謎解きになる。
79年といえば,10年に渡る文革(66〜76)が終了し,改革開放の総方針が決定された78年の翌年に当たる。映画は,そこから89年に起きた天安門事件の翌々年に当たる91年(これも映画の中にははっきり出てこない)までの,改革開放により中国が激変した10年余りの時代を描いているということになる。
しかし,映画はこの時代の政治的事件や経済発展を正面から描くことをしない。時代の流れに対応し,劇団の出し物は革命劇から軽音楽,ロック,ブレイクダンスへと変わっていき,劇団の運営方法も独立採算制に変わり,地方巡業が主となっていく。そうした変化に否応なく巻き込まれていく劇団員の日常を描くことを通して,観客自身が時代の変化を自分で感じ取るようにしている。
その手助けとなるのが,ラッパズボンやパーマ,長髪といった服装や容姿の変化であり,テレサ・テンの歌や「ジンギスカン」,「是否(シーフォ)」といったミュージックの変遷だ。
長い映画であるのに,人間関係や時代背景はほとんど説明抜きで展開される上,一歩引いた位置からのカメラの撮影,しかも長回しのシーンが多く,見ている者にとってはけっこうツラい。当時の政治や社会状況についても説明がほとんどなく,中国の現代史にあまり詳しくない人にとって,理解できるのだろうかと心配した。
中途半端に中国事情を知っていると,却って所々で脱線するかもしれない。炭鉱の町で暮らす三明(サンミン)の姿を見て,改革開放のヒズみを心配したり,草原を行く巡業中のトラックが急に転回し,来た道を引き返すシーンでは,ウランバートルの気象の変化が何か中国の政治情勢の変化を暗示しているのではないかと,ついつい考えてしまう。ラジオから流れる建国35周年のケ小平の大閲兵とか天安門事件の指名手配のニュースを聞いて,今は何年だろうかと考えながら見てはダメだな。この映画,考えてはいけないのだろう。感じなくてはいけないのだろう。
(2000年香港・日本・フランス共同制作/監督:賈樟柯/出演:王宏偉,趙濤(チャオ・タオ)/2002.3.6横川シネマ)
青の稲妻(任逍遥)
いかにもジャ・ジャンクー監督の作品らしいと言えばそれだけで意味が通じる,そんな映画でした。2001年,変わり行く中国。山西省の地方都市・大同を舞台に,国の激変する様子をテレビで見るだけで,定職も無くブラブラしている19歳のシャオジィとビンビンのどうしようもない怠惰な日常と将来への希望が見えない閉塞感を描いた青春映画。
原題は『任逍遥』。荘子の言葉だということが映画の中で紹介される。「何物にもとらわれずに生きる」といった意味合いだが,映画では「やりたいことをやる」という風に現代的に解釈されている。
でも,シャオジィとビンビンは生きたいように生きられない。やりたいことがやれないし,金もない。シャオジィはダンサーのチャオチャオに恋するが,彼女がヤクザの女だとわかってもあきらめない。ビンビンは高校生の恋人と進展しないであろうお互いの関係を予想しながらデートを重ねる。そんな二人が最後に犯罪を犯す。別に切羽詰ったわけでもないのに・・・この気持ちがよくわからない。
わからないといえば,邦題の『青の稲妻』の意味がわからない。映画の中では,ラストに近いところで1回だけ稲妻が光るが・・・監督自身が考えたという英語の題『Unknown Pleasures(まだ見ぬ享楽)』の方が内容の説明としてはまだましか。
そして,たびたび登場する繰り返しのシーン。なぜ,シャオジィはあんなにも頬をうたれなければならないのか。チャオチャオはバスの外に出たいのをじゃまされて,それでもなぜ何度も出ようとするのか。シャオジィはバイクで上ろうとしてエンジンがすぐ切れてしまうような坂道を,なぜ何度も何度もエンジンをふかしてのぼろうとするとするのか。バイクで道を走るシーンでも何にも変化の無いままの長回しがつづく・・・映画を見ているこちらが疲れるほどのそういったのシーンの繰り返しが多い。そういう作り方を評価する人が意外と多いようが,古い人間のぼくにとっては,やはりわかりにくい。
(2002年中・日・韓・仏/監督:賈樟柯/出演:趙濤,王宏偉(金貸し)/2003.3.16横川シネマ)
世界(世界)
北京郊外のテーマパーク「世界公園」。ここにはエッフェル塔やピラミッドなど世界40カ国の109もの名所旧跡のミニチュアが再現されている。山西省から出稼ぎに来て,このテーマパークで民族舞踊の衣装を着て踊るダンサーのタオ(桃)と,警備主任のタイシェン(太生)の恋愛を軸に物語は展開する。
ジャ・ジャンクー監督は,これまで『一瞬の夢』『プラットホーム』『青の稲妻』と故郷・山西省を舞台に若者のやるせなさや倦怠感といったものを等身大に描いてきた。
今回は,映画の舞台を大都会の北京に移しているが,描いている内容は,これまでと同じ,若者の「切なさ」や「空虚」だ。華やかなテーマパークを背景に,そこで働く彼らの日常を描いているので,そのギャップが余計際立っている。
タオとタイシェンの仕事仲間や田舎から来た友人など,幾組かの人間たちが出てきては消えて行き,それがどういう意味を持つのかはすぐには理解できない点もある。しかし,それが,頭で理解することを拒絶し,感覚で観てもらいたいジャ・ジャンクーの映画らしさでもある。
王宏偉(ワン・ホンウェイ)や『プラットホーム』での貧しい田舎の労働者の印象が強烈な三明(サン・ミン)などジャ・ジャンクー作品の常連も出てきて,懐かしかったです。
タイシェンを演じたチェン・タイシェン(成泰shen)は,『思い出の夏』に村を訪れた映画撮影隊の助監督の役で出てましたね。
(2004年日本・フランス・中国/監督:賈樟柯/出演:趙濤(チャオ・タオ),成泰shen,王宏偉,/2006.1.4横川シネマ)
長江哀歌(三峡好人)
ジャ・ジャンクーの映画は,いつも難しい。しかし,この映画は,なぜか心地よい。
映画の中でゆったりと流れる長江に身を任せていれば,監督が何を言わんとするかを特に考えようという気にもならない。
物語の舞台となるのは,国家的プロジェクトの「三峡ダム」が建設中の古都・奉節(フォンジュ)。ダムが完成すれば水没してしまうこの街で,タイムリミットまで必死に毎日を生きる普通の人々の生活を描く。
話の中心となるのは,10数年前に逃げられた妻と娘を探すために山西省からやってきた炭鉱夫ハン・サンミンと,三峡の工場に働きに来たものの2年間音信不通となっている夫を探しに山西省からやってきたシェン・ホン。二人の物語には,特につながりはない。それでいて同時進行する二つの物語を観ていても,特に違和感はない。
全体で100万人を超える人々が移転させられ,映画の中でもあちこちで無残に建物が壊されていくが,この映画はプロジェクトそのものを批判しようとしているのではない。また,昔,こういう町があったという懐古趣味のために作られたものでもない。急速に発展・進化していく中国で,国家の施策に翻弄されながらも,必死に生きていく弱い立場の人民の強い生命力が伺える。
ジャ・ジャンクーの映画に最初は端役で出ていたサンミンがついに主役になりましたね。朴訥な性格は変わっていないけど・・・
(2006年中国/監督:賈樟柯/出演:韓三明,趙濤(チャオ・タオ),王宏偉,/2007.11.7横川シネマ)
四川のうた(二十四城記)
四川省・成都で,50年の歴史のある巨大国営工場が閉鎖されることになった。跡地には「二十四城(24city)」という名の高層マンション街が作られることになっている。
軍需機密工場として最盛期には3万人の労働者が働き,家族を含めると10万人以上の人たちが生活し,一つの街を形成していた,その工場の50年の歴史をインタビューにより振り返る・・・
懐かしい或いは苦しかった過去の日々の仕事や生活の思い出を語る労働者のインタビューにより明らかにされるのは,工場の歴史だけではなく,大躍進政策や大飢饉,文化大革命といった中国の歴史そのものだ。
このあたりの作り方は,『プラットホーム』に似ている。歴史そのものを時系列に映像化するのではなく,インタビューの中で時折,何気なく語られる言葉により,観客が工場と中国現代史との関わりを知るわけだ。また,失われゆく中国の記録を残すという点では,ダム建設により水没する町の人々の日常を描いた『長江哀歌』にも通じるものがある。
しかし,『プラットホーム』や『長江哀歌』と根本的に違うのは,映像ではなく,語りを中心に映画を作っていることだ。インタビューに登場するのは8人である。実際にそこで働いていた人が4人と,残りはリュイ・リーピンやジョアン・チェンなど本物の俳優が受け持つ。リュイ・リーピンたちは,もちろんその工場で働いたことなどないが,彼女たちの話す内容は,実は,100人もの実際に働いていた人たちへのインタビューが基になっているという。
そのため,映画を観ていると,8人が皆そこで働いていた(チェン・タオのケースは少し違うが)かのような錯覚を受け,俳優を知らない人は,どこまでがドキュメンタリーで,どこまでがフィクションなのか,よくわからないだろう。また,インタビューを聞いているだけでは,普通,退屈するはずなのだが,途中,効果的に挟まれる実映像や当時の音楽(山口百恵)により,観客は,インタビューを聞きながら,自分の頭の中のスクリーンに勝手に映像を映している状態になる。構成と編集がうまいのか,これまで観たことのない映画を作ってくれた。
たいした監督である。次は,どんな映画を作ってくれるのだろうか。楽しみである。
(2008年中国・日本/監督:賈樟柯/出演:ジョアン・チェン,呂麗萍(リュイ・リーピン),趙濤(チャオ・タオ),/2009.8.10横川シネマ)