前述したように、出雲は新羅から船を迎日湾に浮かべると海流によってたどり着くことの出きる場所である。当時から大勢の移民が出雲に流れ着いたか、意図的に渡来したのではなかろうか。百済系である大和朝廷は出雲を新羅系と認識していたことが「記・紀」に見られる。
(右図:迎日湾に面する工業都市、浦項)
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出雲は古代朝鮮とも異なる独自の文化を築いたと私は考えるが、その下地は明らかに朝鮮、特に新羅からの影響を受けている。新羅の前身である弁・辰韓にふれた「魏志東夷伝」に「国から鉄が出、倭などみな随ってこれを取る」という記述がある。この事は当時から古代朝鮮に製鉄技術があり、それを日本の前身である倭からも取りに来るものがあったということである。このことはスサノオノミコトが鉄を目指して朝鮮から日本にやって来たこととの関係もあり興味深い。前述の通り出雲では砂鉄が取れることで知られており、縄文時代の中期頃からすでに素朴な鉄生産が行われていたという記述もある。倭から弁・辰韓に鉄を取りに行った人々の情報の中に出雲の鉄のことが含まれていたとしてもあながち妄想ではなかろう。
(右図/吉田村.菅谷たたら:当時のたたら場を再現してある)
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そのほか新羅の王が用いた王冠の飾りに勾玉が使用されていることも興味深い。出雲は勾玉の生産地としてもよく知られていた。この勾玉はあまり他の国では知られていないものであり、それが新羅で使用されていたのである。いったいこれは何を意味しているのであろうか。
(慶州:天馬塚の展示品)
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