航海技術


出雲王国を形成するにあたって、その絶対条件は航海技術と造船技術の発展であったことは上述した通りである。この条件を満たしていたがために出雲は王国を築きあげるに至ったと考えられる。そして砂鉄、銅などの製錬技術と豊富な資源が更なる飛躍を遂げることを容易にし、しまいには出雲信仰にまでいたる独特な文化を形成するのにいたるというのが私の見解である。

ではその航海技術である。
古代の基本的な航海は島を離れず、見える範囲内において航海を続けるという近海航海である。縄文時代、まだ道路がケモノ道だけだったような時代の日本を渡り歩いた人々は、この方法で移動したことであろう。更にその航海技術が発展すれば遠洋航海も可能になるのであるが、はたして出雲にその航海技術があったのであろうか。

失われた技術ほど再現しにくいものはない。今となっては出雲に高度の航海技術が存在したかを立証することは困難である。しかし練習場として都合のいい内海を抱えており、朝鮮で最も優れた航海集団を抱える新羅に最も近い国である出雲だからこそ、高度の航海技術を持ち得た確率は非常に高かったはずである。その視点から出雲の航海技術について考察してみたい。

航海技術の基本は天然自然の理を極めることである。
昔の人々は現代人よりも四季の変化に敏感であった。特に大海原を駆け巡る航海集団にとって天候や波の動きは生死に関わる問題であった。雲を見て天気の変化を当然知り得なければならなかったであろうし、潮汐や風の変化を十分知り尽くしていたであろう。例えば出雲が八雲と呼ばれていたのも気象条件に関係する代表的な雲の8形態を表したものかもしれない。また出雲信仰の一つに10月の神在月信仰があるが、これは一年の航海の終わりを締めくくる祭りであったのではなかろうか。丁度10月頃から海は荒れだし、春が来るまで遠洋航海は困難になる。それを考えれば神在月信仰をその時期に持ってきたことに意味を見出すことができる。

航海に必要な太陽の動きにも当時の人々は敏感であったであろう。この太陽の動きによって方角を知ることができるからである。当時の出雲に方角の認識があったことは、夏至の太陽の動きを基準に万九千神社や出雲大社が建てられていることからも想像がつく。


(出雲大社)
この場所と万九千神社を直線で結ぶと丁度
夏至の太陽の動きに重なるといわれている。

(万九千神社)

ここに神々が集い、そしてそれぞれの
国に御立ちになるといわれている

航海をするときもう一つの方法は、星を見て方角を知る方法があるが出雲で天文学の様なものがあったかどうかはさだかではない。ただ出雲に最も関係深いと思われる新羅はアジア最古の天文台をもっていた。とすると出雲にもその天文学的知識が伝わっていたのではという匂いが微かにする。これは後に遣唐使時代の日本が新羅の航海技術及び造船技術に驚嘆することになることを考えると非常に示唆に富んでおり、興味深い。
(慶州:アジア最古の天文台)

方角ということでいえば二つの神名火(樋)山である仏教山と大船山が南北に一直線に並んでいるのも興味深い。神名火(樋)山信仰は弥生以前の昔からあったともいわれているからそうとう古くから方角について認識があったのであろう。

「魏志倭人伝」の中には既に距離に関する記述がでているので、出雲でも距離の計り方は知られていたであろう。航海技術とは直接の関係はないので脱線するが、面白い記述がある。この倭人伝に倭人はみな刺青をしているとでている。もしも航海中、または漁労中に水死してしまった場合、すぐに見つかればいいが時間が経つと死人の判別がつかなくなる。その時刺青があれば死人の識別ができる。もしかすると刺青は海人の知恵の産物なのではなかろうか。
土偶の刺青も知恵の産物
別冊歴史読本 特集 よみがえる縄文の秘密(表紙) 新人物往来社より


航海技術では当然航海操作技術の伝達が重要である。しかし残念なことにこの操作法は現在消滅しているといってもいい状況である。だから帆や櫓、櫂等の操作方法がどのようなものであったか知ることは難しい。ただ舟祭りである美保神社の青柴垣神事、諸手船神事、阿太加夜神社のホーランエンヤ神事、宇竜八幡神社の和布刈神事などが微かに当時を知る助けになる。この四つの行事が神事であるということから、時代はずれることもあるかもしれないが出雲の航海技術はかなり有名であったということが言えるのではなかろうか。

前に戻る

次に進む

「古代出雲の特徴」に戻る