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藤忠ビルプロジェクト
2001/10/7-12/31 松江市天神町「藤忠ビル」で開催中
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松江郷土館に藤忠ビルコーナー
 

解体、見届けました。


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月刊藤忠ビル通信


序にかえて――
藤忠ビルプロジェクトの軌跡(1)
高嶋敏展
 [藤忠ビルプロジェクト実行委員会代表]
創刊号/2001年11月25日発行


天神町を通るたびに角の金物店の看板が気になっていました。レトロというのかモダンと呼ぶのかよくわからないけれど、その建物はたしかに存在感があり、そこに建っているだけで歴史を感じさせていたことが印象的でした。

その建物――「藤忠ビル」が平成13年度中に取り壊され、73年の歴史を閉じます。

藤忠ビルのことを気にしながら日々を過ごしていた市民の中から、有志10人が集まってビルを名残惜しむための藤忠ビルプロジェクト実行委員会は生まれました。



趣のある建物がある日、突然壊されることが近年になって目に付きます。また、歴史ある建物が市民運動によって守られた事例は全国的に見ても少なくはありません。

しかし、藤忠ビルをめぐるこのプロジェクトの主旨は、そういった運動にはありません。死期の迫ったビルをきちんと看取ってやる、最後に輝きを蘇らせてやる、例えるならビルのためのホスピスのような試みにあたるのではないかと思っています。

メンバーはそれぞれの仕事の合間をぬって、自分の時間の中からできることを探していきました。「作品展をしよう」「お茶会やカフェをやろう」――、アイディアはあふれ出るのですが、資金的・時間的な面で常に苦しみました。誰が準備するのか、広報はどうするか、土日の休みを毎週つぶすのは負担ではないかなど――。

また、協賛企業を探すノウハウもなく、行政などからの助成金を申請する時間的な猶予もまたありませんでした。すべての経費を自分達の持ち出しでスタートさせることになり、当初は不安でないメンバーはいなかったでしょう。しかし、このことが結果として活動を純粋かつ柔軟にしてくれているのではないかと思います。



建物に最初に入ったときの息苦しさは忘れられません。建物のすべてが埃をかぶって呼吸を妨げられているようでした。死を迎えようとする最後の姿だったのかもしれません。

掃除をしてやろう、ささやかな死化粧のつもりで埃をはらい、床をワックスで磨きました。段ボールに貼られた「廃棄」マークのシールをはがして商品を並べ直してかつての姿を再現し、さらに棚の材木を使ってテーブルとイスを作り、蛍光灯に替えてかつてここで使用していたガラス製のランプシェードを取り付け、オレンジ色の電球を灯しました。

掃除と片づけと内装とに2週間の格闘をやった結果、徐々に道行く人々がこの建物を振り返るようになり、今では多くの方が建物内にまで足を運んでくださるようになりました。


当初のロビー   掃除・改装後
当初のロビー   掃除・改装後




建物に惹かれて始めたプロジェクトですが、建物以外のところで色々な発見や出会いがありました。

建物の中に取り残されたものたちの一つ一つが歴史を語っています。戦前に店で使われたいた10数台の電話、金属のなかった戦争中に陶器で作られた電灯の傘、廃棄シールが貼られた商品達――。忘却のかなたに追いやられようとしていたもの達が、待っていたかのように饒舌にしゃべりだして止まりません。

なかでも、とびきりの出来事は倉庫の2階の屋根裏に自動車が現れたことです。藤忠の社長さんが中学生の、学校の夏休みの宿題に仲間4人で手作りした自動車だそうです。「思い出を捨てられずにとってあるんですよ」社長さんが少し照れながら話してくださいました。完成当時、中学校の校庭を走って見せて街の話題をさらったそうです。この手作り自動車は現在、協力者(オープン日にふらりと遊びに来てくれたエンジニアのM兄弟)の手により整備中で、近々ロビーに展示する予定です。


立ち並ぶ個性的なレトロ電話機   倉庫の奥から「発掘された」自動車
立ち並ぶ個性的なレトロ電話機
© 前田典仁
  倉庫の奥から「発掘された」自動車




少しでも多くの方に来てもらおうと、当初は火曜の夜だけに設定していたオープン日(館内自由見学&交流サロン)ですが、結局土日の日中も開くことになりました。藤忠ビルや昔の天神町界隈に関する写真・資料もそこでご覧いただけます。

そのオープン日はまさに出会いの場。多くの方たちがビルにお別れを告げにいらっしゃいます。「何千回上がったかな」階段の手すりをさすりながら定年退社した藤忠の従業員さんがつぶやきました。40年前に毎朝夕このビルの前を歩いていた少女は、いつか入ってみたいと思っていたこの素敵な建物に今回ようやく入ることができたそうです。想いはひとりひとり違いますが、名残り惜しむ声があちらこちらで聞こえてきます。

建物にまつわる想いの数々にどう接すればよいのか。私たちで何時間ものミーティングを繰り返してみましたが、今だ結論らしきものを得ることはできていません。

私たちにできることは、ビルの扉を開けておくことだけなのかもしれません。一人でも多くの方にここを訪れていただき、名残り惜しみ、別れを告げてもらう――。それを私たちのささやかな願いとしようと思います。

今回のプロジェクトを通して起こったエピソードを少しでも多くの方に知っていただきたいと思い、ビル解体までの間、この「藤忠ビル通信」を定期的に発行することにしました。



最後になりましたが、快く私たちにプロジェクトの機会を与えてくださった藤忠ビルの藤原オーナーと、温かいまなざしで支えてくださる地元の方々をはじめ、イベントを通じてプロジェクトに関わっていただいている県立美術館、その他様々な形で支援してくださるすべての方々に深く感謝いたします。


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