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藤忠ビルプロジェクト
2001/10/7-12/31 松江市天神町「藤忠ビル」で開催中
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松江郷土館に藤忠ビルコーナー
 

解体、見届けました。


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月刊藤忠ビル通信


藤忠ビルプロジェクトの軌跡(2)
高嶋敏展
 [藤忠ビルプロジェクト実行委員会代表]
第2号/2001年12月25日発行


この文章を書いている12月20日現在、プロジェクト終了まであと2週間を切っています。建物の記憶と多くの出会いを集めた藤忠ビルプロジェクトも最後の局面を迎えようとしています。

前回のビル通信では建物と実行委員会との関わりを中心に紹介しました。今回の通信では、藤忠ビル73年の歴史で初めて起こったであろうエピソードをいくつか紹介してみようと思います。



まず言えることは、この3ヶ月間で藤忠ビルはかつての金物問屋から、松江でも数少ないおしゃれな空間に変身したことでしょう。

古くてレトロなものが現在、おしゃれで新しい感覚だとすれば、藤忠ビルは周回遅れのトップランナーでしょう。

当初私たちは、入館者の年齢層は高齢者が中心となるだろうと考えていました。天神町のお年寄りがビルでお茶を飲みながら昔話をする姿がイメージとしてあったのです。ところが、現実は大違い! 客層はバラバラでした。若いお母さんが「子供に見せておきたくて」といらっしゃったり、若いアーティストやダンサーが素敵な空間だと顔を覗かせます。地元の方が忘年会の酔い冷ましにふらりと現れて折り詰めを振る舞ってくれたと思えば、テレビやラジオで情報を聞いて、広島や岡山から遊びに来られる方もいらっしゃったり、大学や行政(日本大学、広島大学、鳥取県など)の視察も後を絶たず、嬉しい悲鳴の毎日でした。集客的にも当初の予想を遙かに上回っています。



イベントの度に人が増えていくのがわかりました。12月の天神市で300人の入館者を数えたり、ダンスイベントでは10代を中心にした若者が100人以上詰めかけました。

リピーターが非常に多く、スタッフなのかお客なのか分からない人間が急増したのも特徴の一つです。新聞記者やテレビのディレクターまで取材の帰りに手伝ってくれたり、一人一人が自分なりのやり方でビルを楽しんでいるようです。

すべての世代に通用するキーワードが、藤忠ビルにあるのかもしれません。


藤忠ビル
変わりゆく町並みを見続けた藤忠ビル。今、何を想うのか。




写生会や撮影会を県立美術館が主催してくれました。美術館が街に出ていく動きは全国的な動きとして盛んになりつつありますが、まさか保守的な(?)地方の美術館が軽やかに街に現れるとは夢にも思いませんでした。美術館とは芸術作品を置いてある箱ではないと証明してくれた県立美術館には脱帽です。藤忠ビルプロジェクトが火種となって、松江の街が芸術的な空気であふれる日は近いのかなと興味深く見ています。



藤忠の壁に掛けられた写生会の作品やスライドで映されている写真を眺めていると、藤忠ビルの知らなかった表情を教えてくれて、新たな発見が見つかってきます。制作者達の藤忠ビルへの想いが浮き出ているのかもしれません。

また、美術館のアテンダント(受付・監視員)さん達が中心になってカフェを開いてくれています。地元の方から大好評で開催日を増やすこととなりました。これも美術館と街の良い関係なのだと思います。

カフェについては余談があります。藤忠ビルでカフェなど、誰も思いつかなかったかもしれませんが、1955(昭和30)年発行の「松江八百八町町内物語白潟の巻」を読んでみると、天神町の衰退を嘆いた地元の有力者が昭和の初めに、一人あたり千円の出資で天神裏にカフェ(松江で最初のカフェもご近所の白潟本町だったっけ)を開いたとあります。主な有力者3人の中に藤原忠太郎(藤忠の名前の由来となった人)がいらっしゃるではありませんか。先を越された感じでした。

藤原忠太郎は昭和2(1927)年の白潟大火の教訓から鉄筋コンクリートの藤忠ビルを造りました。昭和24(1951)年の天神町大火時にその教訓は活かされ、建設当時の姿をほとんど変えることなく現在に留めています。明治の事業家の発想は時代を遙かに超えて現代人をしのぎます。とても私たちではかなわないと痛感しました。

藤忠ビルに県内外から様々な反響が集まってきています。建物の保存運動ではなく、最後の夢をプロデュースした点を評価いただいています。

■ 

この通信がみなさんの手に渡る頃には、一畑電鉄松江温泉駅には解体の足場が組まれているはずです。旧駅舎と新駅舎の切り替えの日、私は最終電車を見送りに行きました。乗客が20人、名残惜しむ市民が10人ほど、駅員が5・6人。それが最後を見守った人数です。昭和2(1927)年建設、藤忠ビルと同い年の松江温泉駅の最後は、意外なほどあっけないく寂しいものでした。


松江温泉駅
藤忠ビルの老友、松江温泉駅。人々の生活を見守ったこの駅舎も、静かに去ろうとしている。




「古い建物の行く末は、保存か解体かのどちらかだけど、このプロジェクトのように、建物を記憶に留めるイベントを行うのは、全国的に見てもあまり例が無い。藤忠ビルは異例中の異例だ」と来館者の一人が教えてくれました。

藤忠ビルプロジェクトは、単なるアートを中心としたイベントでも、中心市街地の空き店舗対策の一幕でもなく、まぎれもなく松江市の“事件”として記憶されると確信を持っています。


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