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藤忠ビルプロジェクト
2001/10/7-12/31 松江市天神町「藤忠ビル」で開催中
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月刊藤忠ビル通信


3ヶ月のプロジェクトを終えて――
藤忠ビルプロジェクトの軌跡(3)
高嶋敏展
 [藤忠ビルプロジェクト実行委員会代表]
第3号/2002年01月25日発行


藤忠ビルでの3ヶ月が終わりました。ビルでの出来事は、今朝見た夢のように近くて遠い存在になろうとしています。

私ごとですが、中学校3年の時(昭和62[1987]年)、木造の古い校舎から鉄筋コンクリートの校舎に移った経験があります。バブル経済のさなかに起こったことで、古い物を新しくすることには何の疑問もありませんでした。ただ、廃墟のようになった校舎を見て無性に悔しかったことを覚えています。

あの頃、疑問を持たなかったこと、何もしなかったことが棘となって今の僕を刺し続けます。後悔したくない、目の前の出来事を無視したくない、そんな気持ちが藤忠ビルの前で蘇りました。

お金では買えない事を僕らはやっていたのではないかと思います。他人に踊らされない、自分で踊るのだ! そんな気持ちがありました。

イベントが数珠つなぎで毎週なにかをしていました。時間に余裕のある人間が運営をしてわけではありません。どちらかと言えば時間に追われる仕事を多くのメンバーは持っています。後半は仕事と藤忠ビルプロジェクトのハードスケジュールに身体をこわすメンバーが続出しました。

ぎりぎりの人員体制で常に動かしているプロジェクトでは途中でイベントの担当を代われる人間など存在しません。複雑な
段取りを途中から引き継げるはずもありません。始めたことは最後まで同じ人間が責任を持ってやるしかないのです。

しかし、それらの事が苦しくて辛かったかと言えばそうではありません。誰一人として強制されて嫌々やっていた人はいないのでしょう。むしろ楽しかった思い出としてよみがえってきます。

やれることはすべてやろう、「ダメ」と言う前にどうすれば可能かを考えよう、前向きに動き続けた日々は、何かに取り憑かれたように過ぎていきました。

何が自分達を動かしたのだろう?とふと振り返って考えてみます。73年の建物の歴史を名残惜しむため? 街づくりへのメッセージか? アートの試みとして?

なぜかどれも違う気がするのです。僕らを動かしたのはもっと他愛のないことやささやかなことだったように思います。

それは、地下室にしみこんだ機械油の匂いだったり、真鍮のボルトのひんやりした冷たさだったり、昼下がりの午後の日差しだったり。報告すべき出来事、記録し伝えねばならぬことはたくさんあるはずなのですが、そんな他愛もない事ばかりを思い出しています。


真鍮製のボルト
©前田典仁


藤忠ビルで過ごした時間は素敵でした。映画館を出た後の現実と虚構の間をうつろい、さまよう感じに似ているかもしれません。僕らは素敵な事をいくつもたくらんで、ささやかな秘密や計り知れない出会いの数々に酔っていたのかもしれません。
自分達で作ったテーブルでコーヒーを飲んでいると、オレンジ色の白熱灯の明かりが琥珀色を少しだけ深くします。このビルの73年の歴史が苦みの向こうのほのかな甘さを引き出します。

気に入ったレコード(CDではありません)をかわりばんこに聞いてみました。ジャズでもなつかしいポップスでもフレンチでも藤忠ビルではどんな音楽を聞いても美しく聞こえました。思いっきりボリュームを上げて、時には口ずさんで、ミュージシャンについて知ってるエピソードや想い出を語り合いました。



訪ねてきた人も立ち寄った人もみんな素敵でした。

忘年会の帰りに酔い覚ましに顔をのぞかせたIさんはいつもご機嫌で僕らを笑わせ、電気店のKさんはフランス語のレコードを聴きながら通訳をしてみせ、機械工のMさんはバイクの話しで盛り上がっていました。


ビル竣工から間もない昭和初年にビル内で撮影された、藤忠従業員の集合写真を見る人々


鳥取県の智頭町からは大晦日に2人の方が訪れてくれました。視察で訪れた松江の藤忠ビルに心惹かれるものがあったのだそうです。

藤忠ビルの設計者、秋鹿隆一さんのお嬢さんがビルにいらして、「父は生前、自分の仕事は死んでから本当の評価がされると言っていましたが、このことだったのですね」とおっしゃってビルを隅々まで眺めて帰られました。

商店街のアーケードの上にのっかて、ビルを眺めていると、秋風(風よ覚えておけ! 今度、この町に来たときにこの建物はないのだぞ)が吹いてきます。空が青く、高く、遠くに見える歩道から通りすがりの人が僕らに手を振ってくれます。僕の横には仲間達がいて、軽やかに笑いながら同じ空を見ています。

このように過ごす時間をなにと引き替えにできるでしょう。

出会い、集い、語れる場所があって、心おけない仲間がいて、きらきらとした、さわやかでとてもきれいな時間が流れていました。仲間達も訪れた人達も少年のまなざしで笑い、少女のような夢を見て、無邪気に過ごした3ヶ月でした。

やさしい人達の多さに心なごみ、癒され、日頃のずるく生きている自分が救われ、許されるような気がしました。浮き世のわずらわしさを忘れ、違った時間が流れ、いつもと違う自分になれるようでした。大げさなことではなく、たしかな事でなく、ただ、なんとなくに感じるのです。


Cafe d'Ateco
©前田典仁




なにかを成し遂げた充実感より祭りの翌朝の寂しさを今は感じています。

緩やかなワルツで幕を上げ、華やかな心ときめかすタンゴで幕を閉じた3ヶ月を振り返ると、お礼の言葉を言わねばならない人が数え切れぬほどになっています。関係した人の名前すべてをこの場に挙げることはとてもできませんが、本当に多くの人々が関わってくれたのだと写真を見ながら思い出しています。感謝の言葉はとぎれることを知りません。

心よりこの場をお借りてお礼を申し上げます。

今後は4月に島根県立美術館で活動の報告会と記録の冊子の制作を検討しています。みなさまのご協力とご理解を引き続きよろしくお願いいたします。


白熱球を灯していたプロジェクト期間中のビル
©前田典仁


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