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藤忠ビルプロジェクト
2001/10/7-12/31 松江市天神町「藤忠ビル」で開催中
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松江郷土館に藤忠ビルコーナー
 

解体、見届けました。


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月刊藤忠ビル通信


最後のあいさつにかえて
高嶋敏展
 [藤忠ビルプロジェクト実行委員会代表]
最終号(第6号)/2002年07月15日発行


藤忠ビルプロジェクトもいよいよ最後の時を迎えようとしています。3ヶ月間のイベントにギャラリーフェブラリーの一ヶ月間、美術館の報告展の1週間を加えると3,000〜4,000人の入場者と、約70回の新聞・テレビ・ラジオ・雑誌の報道がありました。藤忠ビルプロジェクトの目的である「多くの人々の記憶に藤忠ビルの姿をとどめる」ことは成功したのではないかと自負しています。しかし 自分の中では消化できない固まりが残っています。消え去る建物であることが前提のプロジェクトが、消え去ることへの反発や矛盾や疑問をはらみながら続けられました。壊されているビルに道行く人々は何を思うのでしょう。夢は叶うから夢なのか、消えるから夢なのか。消え去ろうとするビルの壁に問いかけますが、去りゆくビルは僕たちに答えません。 建物の角のまーるいところをもう一度なぞってみたい衝動にかられます。最初からわかっていて始めたことであって、最後がどうなるのかわかっていたはずなのに……。

藤忠ビルの痕跡がいくつか残されています。松江郷土館や中央小学校には藤忠ビルのコーナーが作られ、看板や古い電話が展示してあります。いずれも、先方からの申し入れで実現したことで、プロジェクトの広がりと言って良いでしょう。また、個人の店や自宅に藤忠ビルプロジェクトのゆかりの品々が並んでいる所があります。天神町で言えば岡酒店の販売台、おかげ庵のテーブルなどがそうです。浜佐田のNさん宅にはデッドストックショップのオークションで落札した電灯の傘が毎晩灯っています。多くのモノが藤忠ビルの姿を伝えていくことでしょう。3ヶ月の期間中、街の人々が街の想い出を語らいにビルを訪れました。藤忠ビルの一番の痕跡は多くの人の中に記憶としてビルの姿やシーンが残った事でしょう。人の口から口へ語られて、藤忠ビルは新しい街の中に姿を語り継がれていくことになるのです。



美術館での報告展ではビルの姿を惜しんで訪れる人が後を絶ちませんでした。ちょうど、NHKの特集番組が放映されるのと、報告展の最終日が重なりました。ビルでの活動を知らなかった人がビルに入れなかった事を残念がり、それぞれの思いを語って帰られます。初めてビルに入った時の懐かしさを誰もが共通して語ります。生まれた時期も育った場所も違うのに昔から知っていたような気がするのは何故なのでしょう。


アーケードが撤去され、昔の姿を取り戻した藤忠ビル。
アーケードが撤去され、昔の姿を取り戻した藤忠ビル。




藤忠ビルの最後のイベントをささやかに行いました。 解体の準備でがらんどうになった地下室の壁にプロジェクトのメンバーや協力者で別れの言葉を壁に書きました。「ありがとう、さようなら」、「忘れません」などの言葉が地下室の壁いっぱいに書かれています。タイムカプセルのかわりに埋めた言葉は土で埋め戻され、メッセージを読むことは二度とできません。最後のイベントは「ビルのお葬式をやりたい」と当初計画していたものが3ヶ月の間に僕たちの中で違った形に姿をかえました。何故か死を感じない、消えゆくビルの姿に別れの寂しさでなく旅立つ希望を感じたからです。古いモノになぜ価値があるのか。それは時間が流れているからです。血液のように、空気のように、当たり前のように時間が流れ、記憶が沈殿しているからと、今は確信しています。そして、さようならをしっかりと伝えることは大切なことだったのだと思います。藤忠ビルに片思いでなく、精一杯のありがとうと精一杯のさようならを伝えられた事を感謝しています。松江では自分達を奮い立たせる出来事がなかなか起こらない苛立ち。日々の慌ただしい時間に追われ何一つ生み出していない焦り。息苦しさに気が狂いそうで、なにかせねば自分がダメになってしまう。そんな時期に藤忠ビルと出会えました。未知への冒険でした。



イベント開催中に、藤原オーナーが「これも飾ってください」と持って来られた帽子があります。 黒いフェルトで仕立てられ、柔らかな線が上品でモダンです。ある日、風もないのに壁に掛けてあったこの帽子が落ちてきました。拾い上げてみると帽子の内側の折り返しから名刺がバラバラとこぼれました。名刺には「天神町一六番地 藤原忠太郎」と書かれていました。「ありがとう」と遠くから手を振られたようで涙を抑えることができませんでした。



僕らの旅は終わりました。それは少しだけ美しい物語だったように思います。 仲間の誰も経験していない先の見えない船出でした。今は 壮大な物語を読み終えた時のような清々しさを残しています。 忘れられない日々は今でも光彩を放っています。同時に、治りかけの傷のように生々しく甦ります。僕らのひとときの夢をともに分かち合ってくださったみなさんに感謝しています。藤原オーナー、天神町のみなさん、関係者各位、そして藤忠ビルに、実行委員会を代表して最後のお礼を申し上げます。ありがとうございました。藤忠ビルの記憶がいつまでも語り継がれることを心から願っています。



追伸
今日、藤忠ビルの最後の壁が壊されました。
1928〜2002年6月20日まで松江市、天神町16番地に藤忠ビルはありました。


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