青銅器文化


出雲王国の全てを見つめていた荒神谷遺跡
出雲といえば今では青銅器文化が花咲いた場所として知られている。これも神庭荒神谷遺跡の銅剣、加茂岩倉遺跡の銅鐸のおかげである。それまでは出雲王国の存在など皇国史観のせいで歯牙にもかけられなかった。両遺跡の出現で出雲の特異性が周知の事実となった。これほど多数の青銅器が一度に同じ場所で発見された例は他にない。出雲は青銅器文化の国であったと多くの人が感じたことであろう。ではその青銅器は何のために使っていたのであろうか。それは祭祀のためだという。しかし祭祀に発展するまでの過程は見過ごされがちである。なぜ銅剣、銅矛、銅鐸でなければならなかったのかという問いに正面から答えた人はいない。

何遍も繰り返すようであるが、出雲は航海・造船技術の発展の基に王国を築いたと考えられる。そして多数の青銅器の発見である。何が言いたいのかというと、つまり航海・造船技術と青銅器文化は離れ難い関係で結ばれているのではなかろうかということである。

上述したように、当時の宍道湖は格好の航海習練場であった。そのために神名火(樋)山が方角とのろしの意味を持つ可能性についても述べた。そして多数の銅剣、銅鐸も航海技術のために用いられた道具ではなかったかと私は考えるのである。それでは青銅器の中でも最も謎とされている銅鐸に関して話を進めながら、青銅器文化について考察していこう。
出雲と青銅器

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