陳凱歌(チェン・カイコー)監督 <第五世代>


黄色い大地(黄土地)★★★★★
中国映画界に第五世代が誕生したことを告げる記念碑的作品。この映画を見ずして中国映画は語れない。世の評論家諸氏は,初めてこの映画を見たとき,中国映画の新しい息吹を感じ,皆一様に衝撃を受けたそうだが,悲しいかな私の場合,最初に見たときは内容がさっぱりわからなかった。この映画は,私が劇場で見た最初の中国映画(1985年3月)になるのだが,その時は,習い始めたばかりの中国語の聞き取り練習のためと映画を通して中国のことをより多く知ろうとして見に行ったわけで,当時「第五世代」という言葉など知る由もなかった。ストーリーよりも映像で観客にメッセージを,それも国家のイデオロギーではなく,監督の個人的主張を訴える映画であり,何回か見ないと内容が理解できないと思う。
話の筋は至って簡単である。1939年の初春(国共合作は1937年9月),八路軍の文芸工作員・顧青(グーチン)は共産党の政策を人々に広める宣伝歌の元歌として民謡を採集しようと,延安革命根拠地から黄河上流の陝西省北部の極貧の村にやって来た。村で一番貧しい自分の家に顧青をしばらく泊めることになった翠巧(ツイチャオ)は,彼にあこがれ,売買婚の残る封建的な村から脱出しようとする・・・
まずもって圧倒されるのが,乾燥しきったどこまでも続く黄土の山並みとその上に広がる果てしなく青い空。そしてゆっくりと穏やかに流れる黄河。そうした大自然と比べると,人間はなんと卑小な存在か・・・と,張芸謀のカメラが語る。
この映画のもう一つの特色は,農村における結婚式や雨乞いの儀式,それに延安での賑やかな「腰鼓舞」などが描かれ,民族色が非常に豊かな点だろう。顧青が世話になった翠巧の家は,山の崖をくりぬいて作った「窰洞(ヤオトン)」と呼ばれる住居であり,家の中ではオンドルが炊かれ,翠巧は温かいお湯で顧青に「洗脚(シージャオ)」をさせる。翠巧が家族のために「布鞋(プーシエ)」を縫っていた家の入り口には,翠巧の婚礼の日には「春聯(チュンリエン)」というめでたい対句を書いた赤い紙が貼られていた。そんなシーンを見て,中国かぶれのぼくは,当時,うれしくて堪らなかった。
しかし,映像にばかり気をとられていると,この映画の主題を見落としてしまう。わかりやすく描かれているのは,共産党と農民のギャップだ。民謡を集めに来た顧青に対し,翠巧の父は「悲しくもないのに歌なんか歌えるか」とつれない。顧青は共産党の理想や延安で流行っている自由恋愛を理解できない翠巧の父と,ついに心を通わせることができないまま延安に帰ることになる。しかも,顧青は彼の説く共産党の理想を唯一理解し得た翠巧が願い出た,延安への同行さえもかなえてやれない。黄河を無理して渡ろうとして波にのまれた(多分)翠巧が最後に歌っていたのは,顧青が翠巧の弟・ハンハンに教えていた共産党賛歌の一節「万民救う共産党♪」である。果たして共産党は本当に中国人民を救い得たのか・・・
毎日,遠くの黄河まで水汲みに行き,夜は遅くまで糸を紡ぐ翠巧が,悲しい女の性を歌う澄んだ歌声が心に沁み入ります。観れば観るほど好きになる映画です。
(1984年広西映画製作所/監督:陳凱歌/撮影:張芸謀/出演:王学圻/1985.3映像文化L,2001.11.20renewal)
大閲兵
1984年10月1日に天安門前で行なわれる建国35周年記念の閲兵式の大行進に参加するために,兵士たちが過酷な訓練に挑む様子を描く。たった96歩,時間にして1分足らずの行進だが,これに参加することは,兵士たちにとって大変な名誉であり,また昇進のチャンスでもあった。兵士たちはそれぞれ目的は違うが,閲兵式の大行進メンバーに選抜されるよう厳しい訓練に黙々と耐えていた・・・
陳凱歌監督の第二作目の映画で,撮影は第一作目の『黄色い大地』と同じ張芸謀。この二人が組めば,兵士たちが苦しい訓練を耐え抜き,閲兵式をみごと大成功のうちに終わらせたという涙と根性の物語だけで終わらせるわけがない。(どうしても,そういう,うがった見方をしてしまうなあ。)炎天下で3時間も直立不動の姿勢のまま立ち続ける訓練や足を高さ30センチで45度前に出す訓練を文句一つ言わず何百回もやり続ける兵士を見て,異常だと思うのはぼくだけだろうか?
訓練は炎天下でも土砂降りの雨の中でも続けられ,訓練中に何人も倒れ,果ては訓練から逃げ出す者も出てきたりする。兵士たちは,なぜこんな個性も認めない訓練を繰り返し行なわなければならないのかと思い悩む。だが,実際に口に出して不平を言うのは,仕官学校に不合格となった学生あがりの呂純だけで,他のものは一言も不平をもらさず,閲兵式に参加したい一心で黙々と訓練に励む。ある者は,母が死んでも葬儀にも参加せず,又ある者は婚約者との結婚を先延ばししてでも,訓練に参加しようとする。教官や隊長も内心では部下たちの心情を理解しながらも,閲兵式を無事に終わらせるため,厳しい訓練を続けていく・・・(何がそうさせるのか?)
そうした機械的で非人間的な訓練風景の合い間に,宿舎の中でのシーンで兵士たちのひと時の団欒やそれぞれの閲兵式にかける夢を,個々人の人間的側面を見せながらうまく挟んでいる。そのシーンが生き生きしているため,よけいに訓練自体が非人間的に見えてくる。ラストの大行進シーンを見ながら,あなたは陳凱歌からどんな隠れたメッセージを感じますか?
(1985年広西映画製作所/監督:陳凱歌/撮影:張芸謀/出演:王学圻,孫淳/映像文化L,2001.1.4renewal)
子供たちの王様(孩子王)
文革で下放された経験を持つ陳凱歌が,当時の荒廃した教育を振り返って,教育とは本来どうあるべきかを問うたもの。文革の悲劇や下放生活のつらさを描いた他の監督の文革映画とは趣きを異にするが,主人公の青年の「反抗の姿勢」により,文革を批判している。
文革中,下放先で野良仕事をしていた青年(やせっぽち)が,突然,辺境のある山村(雲南省と思われる)の中学校に教員として赴任することになった。しかし,その学校には教科書が一冊しかなく,前任の教師は教科書を黒板に書き写し,それを生徒に書き取らせるだけの授業をしていた。(なんか『あの子を探して』のミンジと似てるなあ)下放青年は上から押し付けられた教科書を書き取るだけでは無意味で,自分で考え,表現することが大切であると思い,教科書を教えることをやめ,生徒たちに字を教え,作文を作る練習をさせる。生徒たちも次第に彼の指導方法を理解し,学習することに喜びを見出していった。しかし,教科書を教えない彼のうわさを上層部が聞きつけ,彼は教員をクビになる。彼は,生徒の中で一番勉強熱心で,字典を書き写すほどの努力家の王福に,「これからは何も書き写すな」というメッセージを残して学校を去る・・・
『黄色い大地』,『大閲兵』に続く陳凱歌監督の第三作目で,自分が第五世代の監督たちを引っ張って行くんだという気概がまだありありと見える挑戦的作品。これまで同様,自らの主張を映像で語ろうとしており,少し難解なショットもある。冒頭からいきなり緑の山のショットの連続。なんだ〜,これは?最初から観客に挑戦的なメッセージを出すなよ。どういう意味か解読しなければと,こちらが身構えてしまうよ。
一つ一つのショットが端正で小奇麗であり,そのいくつかが印象に残っている。例えば暗い教室の中から撮る,外の明るい赤土の校庭とか,外から教室を撮る際の校舎の大きな屋根と校庭の赤土との画面バランスなどだが,ショットの構図や色彩に少しとらわれすぎではないかという気もする。
作文の時間では,黒板に大きく書いた「上学」(学校へ行く)の文字だけが画面に映り,人の姿はまったく消え,画面の外から青年と生徒の会話が聞こえてくるシーンがある。画面に映っていない人の声が聞こえてくるシーンは他にもあり,旧来の映画作りの手法から訣別し,新しい映像作りを積極的に試みようとしており,ここらあたりが,初期陳凱歌作品の良さでもあり,限界でもあるのだろう。ショットに託されたメッセージをすべて読み取るには,まだ何回か映画を観直さなければならない。
何も語らない牛飼いの少年が出てくるなど,前二作に比べ少し観念的だが,このあと,『人生は琴の弦のように』になると,さらに観念的な作品になっていく。陳凱歌の作品は,『覇王別姫』に至るまでは安心して観ることができないな。
(1987年西安映画製作所/監督:陳凱歌/出演:謝園/2000.12.25video)
人生は琴の弦のように(邊走邊唱)
三弦の琴を奏でながら歌を唄い,村々を回っている二人の盲目の旅芸人がいた。年老いた師匠は,「琴の弦を1000本弾き切れば,琴の中に入れた処方箋が効力を発揮し,目が見えるようになる」という先代の師匠の教えを信じて長年修行を積み,今では人々から神様と呼ばれるようになっていた。その霊力たるや凄まじく,師匠が小高い丘の上から唄いかけるだけで荒野で部族間の抗争をしていた何百人もの男たちを鎮めることができるほどだ。一方,若い弟子のシートウは,琴の修行よりも,目を開けて見ることのできない世界のことや村の少女蘭秀との逢瀬に夢中になっていた。
995本の弦を弾き切った後,蘭秀の住む村のはずれにある小さな廟に住み着いて演奏の毎日を送っていた師匠は,この村でついに1000本目の弦を弾き切ることになる。念願かなった師匠は,喜び勇んで町へ行き,薬屋に処方箋を差し出すが,それはただの白紙だったとわかる。60年間ただひたすらこの日のために努力し,つらいことにも耐えてきた師匠は,いっぺんに生きる価値を失ってしまう・・・
政治的な寓意が含まれているとあらかじめ知らされていなければ,この映画は人生の目的に向かってまい進する努力物語だと思うだろう。目的はそれを達成するまでの過程が重要なのであって,結果が大事なのではないと。その意味においては,目的を失い落胆した師匠にうどん屋の主人が諭して言ったように,師匠のこれまでの人生は幸せだったのかもしれない。
努力した結果が白紙だったというのは,文革の10年が無意味だったということが言いたいのだろうか?陳凱歌の前三作の映画と違い,この作品には八路軍,文革,解放軍といったような彼が批判の対象にしようとするものが直接出てこない。それでいて,その寓意を汲み取れといっても普通の人には無理がある。
この映画の原作は,史鉄生の書いた「命は琴の弦のように(命若琴弦)」という,単行本で30ページほどの短編だ。映画では師匠をいきなり神様扱いしているが,原作では『古井戸』に登場する盲目の旅芸人一座と似たような(それよりは少し格調が高いが)普通の旅芸人として描いている。そして,原作には名前すら出てこない弟子のシートウが,映画では半分主役となっているし,蘭秀にもしっかりと個性を持たせている。シートウと蘭秀とのからみが多いのも映画ならではかな。盲人なのでシートウが手で蘭秀の顔に触れるシーンが多いのだが,触られる蘭秀の方が少し官能的になりすぎか。
原作との決定的な違いはラストにある。原作では処方箋の効力がなかったのを自分の努力不足のせいにした師匠が,弟子には1200本弾き切れば目が見えるようになると諭し,先代の師匠と同じように,若い弟子にこれから生きる人生の目標を与えてやる。しかし,映画のシートウは師匠と同じ生き方をするのを拒絶する。彼は,師匠の遺した処方箋の代わりに,蘭秀の遺した手紙を琴の中に入れて旅立つのだ。当てにならない教えに希望を見出して生きるより,自分自身の力で現実の世界を生きていくことの方が大切だと陳凱歌は訴える。
一つ一つの場面の映像がきれいで,まるで御伽噺を見ているようだ。怒涛渦巻く黄河の激流をバックに,これから乗り込む船を担いで運んでいくシーンなんか特にいいですね。廟の中の仏像の顔がうどん屋の主人に似ていると思ったのは,ぼくだけかな。
(1991年北京映画製作所/監督:陳凱歌/出演:劉仲元,黄磊(シートウ),許晴(蘭秀)/1992.9岩波ホール,2001.12.18renewal)
さらば,わが愛〜覇王別姫
京劇「覇王別姫」で,虞姫(虞美人)を演じる女形・程蝶衣(チョン・ディエイー)の,覇王(項羽)を演じる段小樓(ドァン・シャオロウ)に対する愛(一方的な同性愛)を描いた作品。
「覇王別姫」は,秦の始皇帝の死後,劉邦と覇権を争っていた項羽がついに垓下(がいか)で劉邦軍に取り囲まれ,項羽が最後の決戦を前に,陣内で酒を飲みながら愛人の虞姫と愛馬・騅(スイ)の前で詩を歌い,その項羽の歌に和して剣を抜いて舞っていた虞姫が,項羽の足手まといになるのを嫌がり自ら首をはねて死ぬ,その悲しい結末を演じたものだ。
映画は,大きく2つの時代に分かれている。1つは,京劇養成所で厳しく芸を仕込まれていた二人の少年時代(1920年代後半)。いつも自分を庇ってくれる優しい兄貴分の小石頭(シャオシイトウ・段小樓)に小豆子(シャオドゥズ・程蝶衣)はいつしか好意を持つようになっていた。
そして,青年時代。二人のコンビによる「覇王別姫」は名声を博していた。養成所時代から自分が女だと思って生きる練習をしていた程蝶衣は,この頃には舞台と現実,男と女の区別がつかない境地に達し,舞台の上でも私生活でも自分が段小樓の愛人だと思うようになっていた。一方の段小樓は,そんなことには無頓着で,娼館通いを続けた上,娼婦・菊仙と結婚してしまう。程蝶衣は菊仙に嫉妬し,段小樓との関係がおかしくなっていく。
二人を取り巻く時代も,日本軍の侵攻から国民党軍の入城,人民解放軍の入城,新中国成立,さらには文化大革命と大激動し,その時々の支配階級の京劇に対する価値観の違いにより,二人には次々と危機が訪れる・・・
陳凱歌は,前4作と比べて映画の作り方を全く変えている。観念的なところは極力抑え,エンターテインメントに走り,観客にわかりやすい映画にしている。これ以後,商業主義に走る陳凱歌の,映画の分岐点になる作品だ。3時間という長い割には飽きさせず,内容的にもおもしろいのだが,陳凱歌の映画を最初から観ている者にとっては,少し物足りなさを感じる。
初めて正面から文革を描いた割には,それに対する監督のメッセージが強く出ていないところが,最大の不満だ。文革で,つるし上げにあった段小樓は,臆病風に吹かれてあっさりと友人を裏切り,程蝶衣の同性愛や日本軍との関係をしゃべってしまい,逆上した程蝶衣から自分の妻が元娼婦であったことを暴露されると,今度は娼婦であった妻など愛していないと公言してしまう。これまでいろんな事件が起こるたびに現実的に冷静に対処し,何度も二人の危機を救ってきた菊仙はそれを聞いて絶望し自殺してしまうが,これでは悲劇の本当の原因がかすんでしまう。
映画の冒頭で,二人の再会が11年振りである原因が四人組のせいだといっておきながら,文革との絡みが希薄な気がした。京劇の鑑賞の仕方により,日本軍や国民党軍に比べて,人民解放軍の文化に対する理解度が低いことを暗示したのなら,ラストでも伝統文化を否定した文革というものを痛烈に批判してもよかったのに,あくまでも程蝶衣の段小樓に対する同性愛に菊仙が絡んだことによる愛憎悲劇物語ということにしてしまった。
(1993年北京映画製作所/監督:陳凱歌/出演:張豊毅(段小樓),レスリー・チャン(程蝶衣),コンリー(菊仙),葛優(袁),費洋(小石頭《幼年》),雷漢(小四)/シネツイン,2002.7.8renewal)
花の影(風月)
『さらば,わが愛〜覇王別姫』以降,エンターテインメントに走ってしまった陳凱歌がまたまた香港資本と組んで作った退廃的な恋愛大作。
物語は大きく2つの時代に分かれる。最初は,1911年の辛亥革命が起きる前の江南。この地方の富豪,パン家の一人娘・如意(ルー・イー)は,阿片の煙の中で育っていた。ある日,そこに若旦那の妻の弟・忠良(チョン・リャン)少年がやってきた。忠良が如意と彼女の遊び相手である端午(ドゥアン・ウー)に初めて会ったときには,如意はまだお転婆盛りの少女であった。一方,若旦那は阿片中毒者で,忠良は毎夜,阿片の仕度をさせられた。阿片にまみれた生活に嫌気がさした忠良は,北京に行こうと,ある夜屋敷を飛び出した。
1920年代の上海。北京に行きそびれた忠良は,ここで,「小謝(シャオ・シエ)」という名で人妻を騙して金を巻き上げるジゴロになっていた。忠良はある日,マフィアのボスからパン家の屋敷に戻り,如意を誘惑するように言われた。パン家では大旦那が亡くなり,美しく成長した如意が当主になっていた。若旦那は阿片のため廃人になっていたのだ。遠縁であることからパン家の養子となり如意の義弟となっていた端午は,下僕のように如意の世話をしていた。そんなところへ姉を訪ねるふりをして忠良が屋敷へ戻ってきた・・・
映画の時代背景が清朝が崩壊した頃であることに加え,紫禁城に似た大きな屋敷でたくさんの家来衆に囲まれ,その屋敷の中だけで育って外の世界に疎い主人公といい,『ラスト・エンペラー』の小型版みたいな気がした。コンリーが自転車の練習をするところも同じかな。
1920年代のオールド上海の街並みのセットはよく作ったなあと感心。映像的にも,自由で騒がしいが冷酷な都会と穏やかな光に包まれた閉鎖的な田舎の水郷のシーンの切り替えが絶妙である。
配役はどうだろう?レスリーのジゴロはキマッていたけど,コンリーの富豪の娘役はイマイチだな。秘密をばらした端午のほっぺたをブッたたいたところだけは,さすがコンリーと感激しました。
しかし,陳凱歌は,一体この映画で何が言いたかったのか?「阿片って何?」という問いかけで始まる冒頭の,阿片の煙の中で幼い如意が歯を出して笑って鬼のように見えるシーンが陳凱歌の投げ掛けだろう。原題の『風月』を中国語の辞書で引くと「男女間の情事」とある。阿片のために人生を狂わされ,人を愛することができなくなった男とその男をひたむきに愛する女の物語か?最後には,お互いの思いがうまく伝わらず悲惨な結末になる。説明がないから,特に始めの辺りは内容を理解するのが少し難しいだろう。2回見た方がいいかも・・・
(1996年香港/監督:陳凱歌/出演:レスリー・チャン(張国栄),コンリー,何賽飛(忠良の姉)/2001.8.5video)
始皇帝暗殺(荊軻刺秦王)
秦王・政(後の始皇帝)を燕から送り込まれた刺客・荊軻が暗殺しようとして失敗した史実を,歴史上実在しない趙姫(コンリー)を二人に絡ませて描く歴史ロマン大作。題名を正確に言えば,「秦王暗殺未遂事件」とでもいったところか。
映画は中盤まで,秦王・政と荊軻を,秦と燕の別々の地でそれぞれ人間性を中心に描くのだが(二人はクライマックスまで顔をあわせることはなく,そのつなぎ役を趙姫が演じることになる),この展開が少しだるい。
秦王・政については,出生の秘密や宦官ロウアイのクーデター事件など,ある程度予備知識がないとわかりにくいのではないか。
荊軻については,人殺しをやめたエピソードがとても刺客らしくない安っぽさだし,秦王を暗殺する気になったところも十分描けていない。史実に沿って,おのれを見込んでくれた者のために命を賭ける義侠の刺客像にした方がやはりよかったのではないかな。
陳凱歌は,秦王をこれまでの残虐非道な始皇帝像と異なり,わざと威厳のない男のように描いているが,これ失敗だったんじゃないかな。クライマックスでは,刺客である荊軻にも同じようにバカを装わせたため,せっかくの暗殺のシーンが盛り上がりに欠けたものになっている。
有名スターをたくさん登場させ,壮大な宮殿のセットや豪華な衣裳,それに解放軍のエキストラをふんだんに使った広大な戦場での迫力ある合戦シーンなど,さすが60億円もの巨費を投じた大作と思わせるところもあるが・・・
「歴史映画というものはむずかしい。」
(1998年中国・日・仏・米合作/監督:陳凱歌/出演:コンリー,張豊毅(荊軻),李雪健(始皇帝),王志文(ロウアイ),孫周(燕丹),陳凱歌(呂不韋),周迅(盲目の少女)/2000.6.9video)
キリング・ミー・ソフトリー(KILLING ME SOFTLY)[英語]
この映画は,分類からいうと中国映画ではない。物語の舞台はイギリスのロンドンで,中国人も出てこなければ,中国との関連も少しもない。全く中国の臭いのしない映画である。しかし,中国映画の巨匠・陳凱歌がハリウッドで製作した記念すべき第一作(英語作品)であるから,あえてここに収めておくことにした。
アリスは出勤途中の交差点で出会った男(有名な登山家)に一目惚れし,恋に落ちて結婚する。前半はそれを官能的に描くラブストーリー仕立てなのだが,濡れ場のシーンはもう少しなんとかならないのかな。後半は夫の過去に疑問をもったアリスがそれを探るうちに身の危険を感じることになるというサスペンス仕立て。
結論からいうと,とても誉められた作品ではない。陳凱歌らしいところが出てくることを期待しながら最後まで見たが,感動するシーンが一つもなかった。陳凱歌はこんな映画を作って恥ずかしくないのかと言いたくなる内容だ。
しかし,それで反省したのだろう,次回作の『北京ヴァイオリン』では中国を舞台に感動的な作品を作ったから,まあ,許してあげようか。
(2001年アメリカ/監督:陳凱歌/2003.11.15video)
北京ヴァイオリン(和ni在一起)★★★★★
陳凱歌が久々に(『さらば,わが愛』以来かな),感動の残る良い映画を作りました。
中国・江南の田舎町で暮らす13歳の少年チュン(小春)は,亡き母の形見のヴァイオリンを弾くのが得意だった。チュンは北京のコンクールで5位に入賞し,彼がバイオリニストとして成功するのを夢見ている父は,息子の才能をさらに伸ばすには,北京で良い教師からレッスンを受けることが必要と考え,チュンと共に北京に留まることにし,自らは息子のレッスン料を稼ぐため,身を粉にして一生懸命働き続ける。やがて,チュンは国際舞台へ羽ばたくチャンスをつかむ・・・
内容自体は,ごくありふれたサクセスストーリーとも言えるが,ラストに少しひねりを加えている。たまに行き過ぎたことをするが,息子のために必死になって頑張るお父さんの時々見せるユーモラスなところと,チュンがあこがれる年上の女性リリの自由奔放な生活,そして変わり者の音楽教師チアン(江)先生のだらしない生活に対比されるチュンの寡黙な性格と行動が映画の前半を退屈させない。
全編を通じてかなりの名曲がヴァイオリンで演奏され,音楽好きの人にとってはそれだけでも感動ものでしょう。音楽がよくわからない人(ぼくもだが)にとっても,ラストの北京駅でチュンが父親のためにヴァイオリンを弾くシーンでは感動が頂点に達するはずです。
個々のエピソードでは,中途半端な終わり方をしたところや,説明がなくて少しわかりにくいところもありました。チュンが北京駅で見知らぬ女性を追って迷子になったシーンや,始めは毛嫌いしていたチアン先生をチュンが好きになっていく過程など。チュンが自分の誕生の秘密を知った後,父と共に田舎に帰るのか,国際コンクールに出るのかを決めるまでの心境などもそうかな。これらは,映画を観ている側が自分で思考を追加して登場人物の心理を理解しなければ話がうまくつながらない。それくらいは観客が自分で考えろという,陳凱歌のメッセージだろうか。(たしかに彼の初期作品はそんな風だったが・・・)
僕自身は,ラストの,駅でヴァイオリンを弾くシーンよりも,その少し前の,チュンの父親とチアン先生,リリの三人が北京駅にやって来たシーンの方が印象深かった。さっぱりした身なりになったチアン先生と普通のお姉さんに戻ったリリが,いつの間に仲良くなったのか,チュンの父親を見送るためにやって来たシーンで,なんとなくほのぼのとした良い気持ちになりました。陳凱歌の作品でホッとするエンディングなんてこれまであったでしょうか?(張芸謀じゃないぞ!)
近代化の進む(競争社会でもある)北京と対比されることになる,冒頭の風光明媚な江南の水郷の風景もよかったです。それにしても陳凱歌は,自分が少し出過ぎでしょうか。『始皇帝暗殺』でもそうでしたが,配役も少し良い役を取りすぎです。また,王志文がこれまでのなよなよした二枚目役とは違った役柄を好演してます。
(2002年中国/監督:陳凱歌/出演:唐韵(チュン),劉佩g(父),王志文(チアン先生),陳紅(リリ),陳凱歌(余教授)/2003.7.12シネツイン)
PROMISE(無極)
マンガみたいな映画だなと思った。内容がである。時代も場所も定かでない。人間の能力も思いのままである。陳凱歌が「愛と運命」をテーマに,歴史上の人物や場所の制約を受けることなく,自由に作ったファンタジー・アクション映画だ。
貧しい少女・傾城の前に,運命の神・満神が現れ,世の中のすべての男の愛を受けることを約束する。ただし,真実の愛は決して受けられないと・・・やがて,美しく成長し,王妃となった傾城(セシリア・チャン)をめぐって,伝説の花鎧の甲冑を身につけた英雄・光明(真田広之),俊足の奴隷・昆崙(チャン・ドンゴン),謀反を企てる公爵・無歓(ニコラス・ツェー)が三人三様,愛の争奪戦を繰り広げる・・・
前作『北京ヴァイオリン』で我々を感動させてくれた名監督・陳凱歌が,なぜ,こんなスペクタクル映画を作ったのか,わからない。日本,韓国,香港からスターが集まり,CGも駆使し,画面狭しと暴れまわるにぎやかな映画で,観ていて楽しいひと時は過ごせるが,感動が残らない。
(2005年中国/監督:陳凱歌/出演:真田広之,チャン・ドンゴン,セシリア・チャン,ニコラス・ツェー,劉Y(鬼狼),陳紅(満神)/2006.3.1東映ルーブル)
梅蘭芳
陳凱歌監督が,『さらば,わが愛〜覇王別姫』以来15年振りに,京劇をテーマに製作した映画。今回は,京劇界に実在した女形のスター梅蘭芳の人生を描いている。
京劇役者の生涯を描くとなると,厳しい修行時代から始まるのかと思いきや,そうではなく,ある程度,京劇の女形のスターになっていた青年時代から描いている。この辺りが,単なる個人の伝記ではないぞ,ということを匂わせている。
梅蘭芳の青年時代を演じるユイ・シャオチュンは,漢劇の男形の役者ということだからか,映画の中でもたくさん京劇を演じるシーンがある。しかも,彼の梅蘭芳は,とてもよく似合っている。レオン・ライの梅蘭芳は,やはり,京劇よりも,人生模様が中心になっている。
『さらば〜』と比較すると,全体的に少しさらりとした感じだ。日本軍との関係や,役者同士の恋愛といった,似たようなテーマで,しかも同じように歴史に翻弄される人間模様を描きながら,『さらば〜』の方が印象に残るのはなぜか。
やはり,文革が入っているか否かによるのかもしれない。でも,梅蘭芳は,文革の始まる前に亡くなっているのだから仕方ない。
共演したチャン・ツィイーの演じる男形俳優は面白かったです。即興で梅蘭芳を相手に京劇の一節を演じたシーンはなかなか気に入っています。
ただ,監督は本当のところ,何を描きたかったのだろうか。梅蘭芳の孤独な人生?そんなことはないだろう。
(2008年中国/監督:陳凱歌/出演:レオン・ライ,チャン・ツィイー,ワン・シュエチー,陳紅/2009.6.16バルト11)
運命の子(趙氏孤児)
司馬遷の「史記」に記されているという「趙氏孤児」の物語を,陳凱歌が彼なりの解釈を加え映画化したもの。舞台は春秋・戦国時代の晋の国。武官・屠岸賈(とがんこ)の策略により,宰相・趙盾(ちょうじゅん)を筆頭に栄華を誇っていた趙氏一族は皆殺しにされる。しかし,宰相の息子の妻・荘姫(そうき)が生んだ赤ん坊だけは,出産に立ち会った医師・程嬰(ていえい)に預けられ難を逃れる。
屠岸賈は,その赤ん坊を探し出し,ついにその命までも奪ったが,実は,その赤ん坊は,趙氏の赤ん坊ではなく,同じころに生まれた医師・程嬰の実の子だった。自分の子と一緒に妻まで殺された程嬰は,趙氏の生き残りの赤ん坊を育て,その子に屠岸賈を殺させようと企てる。
程嬰は,計画を実現するため,ひとまず,屠岸賈の家臣にしてもらい,屠岸賈には,その子・程勃(ていぼつ)の義理の父親になってもらう。何も気付いていない屠岸賈は,その子が趙氏の生き残りだとも知らずに程勃を溺愛する。同じく何も知らない程勃も,屠岸賈を父上と呼んで二人の関係は実の親子のように親密になっていく・・・
程嬰の狙いは,程勃が大きくなり,すべてを打ち明け,復讐を決行すれば,程勃を溺愛している屠岸賈の受けるダメージが大きくなるというところだったが,二人はあまりに親密になりすぎて,そのチャンスがなかなか訪れず,そのうち,屠岸賈に,程勃は趙氏の生き残りだと気づかれてしまう。さてどうなる・・・
と,ストーリーは,面白い。でも,陳凱歌が描きたかったのは,何だろう。むろん,「復讐」がテーマであるはずがない。
映画を観ていると,被害者・程嬰よりも悪役・屠岸賈の方が数段りっぱに見える。屠岸賈は,確かに悪いやつなんだが,義理の子・程勃に対してだけは,本当にいい父親だ。こんなにいい義理の父親を,一族への復讐のためとして,程勃は何のためらいもなく殺すことができるだろうか。また,程勃が趙氏の生き残りの子だと気付いた屠岸賈にしても,これまでかわいがってきた程勃をいきなり敵とみなすことができるだろうか。人間,そんなに簡単ではない。きっと大いに悩んだはずだ。程嬰にしても,自分の子を犠牲にしてまで人の子を守る父親がいるか?「運命の子」というなら,程勃ではなく,その身代わりとなるためだけに生まれてきた程嬰の実の子も運命の子と言える。
(2010年中国/監督:陳凱歌/出演:グオ・ヨウ,ワン・シュエチー,ファン・ビンビン,チャン・フォンイー/2012.3.31サロンシネマ)