序論 小説というもの(とりあえず書いてみよう)
1 漫画と小説
自己紹介の欄にも書きましたが,私は昔,漫画を描いていました。かつてはギャグ物を中心とし,後にストーリー漫画に移行しました。しかし,その時の私のレベルはというと,絵は下手糞,ストーリーはチープ,という,今見ると赤面して裸足で走って駆け出してリオデジャネイロまで行ってしまいそうなほどのレベルの低い低い作品でした。
しかし,私はこの時,絵のレベルの低さは痛感したものの,肝心のストーリーテリングの能力を自身で過大評価していたフシがありまして,「俺のストーリーはとても素晴らしいのに,絵が下手糞なばっかりにそれを殺している!!」と本気で考えていました。恥ずかしい話ですが,自分に酔っ払っていたのですな。
また,私は高校時代,超得意科目にしていたのが国語だったのです。他の科目が大バカだったために,私は当時「国語だけなら東大に入れたが,国語がなかったら大学に入れなかったであろう」と自分で言っていました。裏を返せばそれだけ「日本語の能力」には自信(過信?)があった訳で,この変な自信が直接のきっかけになって小説に走ることになってしまったのです。本当は受験国語の能力と小説の能力とは全く関係ないのですが,今にしてみればバカなきっかけですなあ。とほほ。
さて,私はそうやって漫画から小説へと移行したのですが,どっちがやりやすいかと言えば,もろ手を挙げて「小説!!」と答えてあげます。何せ,漫画は道具(Gペン,原稿用紙,スクリーントーン,ホワイト,その他諸々)を揃えなきゃいけない,絵の勉強(人の表情の描写,人の身体の書き方,背景,遠近法や倒置図法に代表されるテクニック,その他諸々)もしなきゃいけないし,場合によっては専門的な勉強をしたり資料を揃えたりしなければならない。それを多くの場合32ページで納まるようにストーリーを作っていかなきゃいけない。よく日本のアニメが映画に例えられますが,何もアニメでなくても,漫画を描くにしても今や映画を作るだけの労力と能力を必要とされている気がします。
さて,小説です。まず,道具が要りません。紙と鉛筆,もしくはワープロがあればそれだけで書けるのでほぼ初期投資はゼロに近い。面倒くさい勉強も皆無でいい,日本語(じゃあなくってもいいんですけど)が書ければ文章は書ける。後は書きたいことを見つけることと,その「書きたい」というモチベーションをずっと持ち続けることが出来れば,「原稿用紙○枚」という足かせを意識しなければ小説(に近いもの)は間違いなく書けます。いや,実に簡単じゃないですか。
後はいいものを書こうという意識,テクニカルな悩み,あと投稿用に原稿用紙○枚以内で書こうという足かせ等々が入って来るのかも知れませんが,とりあえずそれは置いておきましょう。書き出してしまえばこっちのもの,後は何度も何度も書いていけば自然といいものも書けるようになるはずですし,テクニックも後からついて来るでしょうし,原稿用紙の枚数の稼ぎ方や,逆に効率の良い書き方も出来るようになるでしょう。そこまで出来るようになれば後はもう投稿してプロになるだけですな…いや,これは飛躍し過ぎですか。すみません。とりあえず「書きたい」,「書こう」という気持ちになれれば第1段階は完了です。次に進みましょう。
2 パクリの達人〜何を書こうか?〜
さて,「書いてみたい!」「書こう!!」という決意まではできました。そうなると次に考えなければならないのは,「何を書けばええんじゃい!?」という話になります。
私の場合は,まず「人真似」から始めました。まあ,こう言うと言い方が悪いのですが,要はアイデアを出す上で,また文体等を構築する上で影響を受けた,ということです。私は小説を書き出した大学2年生当時,筒井康隆氏のスラップスティックのショートショートが好きでしたので,それにあっさりと影響されて,まずハチャメチャなショートショートから入りました。今ホームページに載せている作品のうち「ある小説家の病」「娯楽装置」といったものはその時に書いたものですし,あとは「狂気」について考える作品や,愛する奥さんがある日突然男になってしまう話など,とにかくやりたい放題,書きたい放題書いていたのがこの頃でした(この頃の作品である程度完成しているものについては機会があって世間が許せば載せてみたいとは考えています)。
とはいえ,このような作品は,アイデアに溢れているうちは良いのですが,日常生活の中では頭が常識化してしまい,じきに枯渇してきます。そんなに再々ぶっ飛んだ考えが浮かんでくるなら苦労はしません。
そうなると,私の作品の方向性は次第に日常,それも自分が当時最も関心を抱いていたカテゴリー,即ち恋愛方面へと向かっていきました。
当時の私はというと,回数こそ少ないけれど幾人かの女性に恋心を抱き,しかもその思いは,自分で言うのも何ですが誰よりもディープで浪漫的なものであったと自負しています。回数はそうでもないし,結果も惨憺たるものであったけれども,その質は決して誰にも負けないぞ,と。それこそ身が焦がされるような,死にたいくらいのレベルのものであったと思っています。
ただ,現実で上手くいかなかったのは厳然たる事実であるわけで,そのもやもやを,仮想世界である小説の中である程度晴らしていたのかも知れません。「もてない奴が妄想だけで小説を書く」というスタンスは個人的に気に食わないのですが,今にして思えばそうだったのかも知れませんし,今でもそうかも知れません。
まあそれはともかく,私の場合の恋愛がそうであったように,小説を書く取っ掛かりは,やはり日常生活の中で自分が関心と情熱を持って見ているものが中心となるでしょう。私は恋愛だったけれど,趣味でも何でも良いのです。例えば時刻表が好きな人は西村京太郎氏のようなミステリーを書くとか(笑)。まあ考えてみれば当たり前で,全然関心も何もないことを小説にしようったってそりゃ無理な話ですからね。
私の場合,多分に現実的で,しかも天才的にアイデアがポンポン出て来るタイプじゃなかったので,小説に関してはその多くを日常生活に依拠しました。日常の中であった種々雑多な出来事のうち,「これを膨らませれば小説になるなあ」というような比較的大き目の出来事を頭の中で膨らませて話を広げて書いていく訳です。但し,あんまり日常の話をそのまま書いてしまうと,友人その他知っている奴に見られた時に非常に気まずいという大いなる欠点があるんですが,とりあえず今はその種のことは気にしないで書いていますので,皆さんもそうして下さい(^^;
後,私の場合,いや,私だけじゃないと思いますが,自分にとってプラスなこと,幸せだったことより,自分にとってマイナスだったこと,不幸だと思ったことの方が小説になりやすいように思われます。ただ,自分の不幸だった出来事を,しかもとことん突き詰めて考える癖がついてしまうと,現実の自分をとことん追い詰めてしまい,最悪死にたくなっちゃう危険がありますので,くれぐれも精神衛生には気をつけましょうね(笑)。
ま,結論を申しますと,私は最初は他人の作品から,そしてその後は自分の生活からの影響を受けることでアイデアを生み出し小説に結び付けている,いわば「パクリの達人」な訳ですな。それが一番の近道だったと。
「書きやすいことを書く」,「書きたいことを書く」。まずはそこから始めてください。
(「パクリ」っていうとまた言い方が悪いのですが,「アイデアを出す上での取っ掛かりにする」くらいに考えてください。決して「盗作」という意味じゃありませんよ(笑))
3 構想〜タイトルと骨格と〜
さて,3回目です。「書きたい題材」が見つかり,「アイデアらしきもの」が頭に浮かんできたら,いよいよ執筆開始です。
その話に入る前に,蛇足ながら余談を一つ。前回(第2回)を書いた後,自分で読み返してみて,「これはちょっと誤解を受けそう」という表現がありましたので,一部加筆修正をさせていただきました。何かあの文章では,自分があたかも盗作でもやってるように読めてしまい少々不安になったからです。万が一にも誤解された方がいらっしゃったら,あの章をもう一度読み返してください。申し訳ない。自分で自分の名誉を毀損してどないすんじゃい。とこのようにむきになって修正するのも,まだプロにもなってない駆け出しの物書きであろうとも「自分の作品のオリジナリティ」というのは命にも等しく大切なものであり,「盗作」という行為が物書き精神にもとる許されない行為であるということを知っているからです。著作権うんぬんに関する争いは今も昔も後を断たないのですが,物書きにとって自分で生み出した作品がいかに大切か,ということはよく分かりますし,全ての人達に知って欲しいものである,と思っております。余談終わり。
さて,「アイデアらしきもの」が浮かんできたらさあ原稿用紙(又はワープロ)に向かって執筆開始だあ!!と意気込んだのはいいのですが,恐らくそこではたと止まってしまうでしょう。
「タイトルが出来てない…」
そう,小説の最初には必ず「タイトル」というものが存在します。
「俺はタイトルなんてつけない,新しいスタイルを作り出してやるぜ,わははっ!」と仰る方もたまにはいるかも知れませんが,例えば本屋さんで本を物色する時,大方の人はタイトルを見て,「あ,これ面白そう」という印象を受けたタイトルの本を買って行かれるはずです。もしプロになって自分の小説を売ろうと思ったならば,人の興味を惹くようなタイトルを考えないと本が売れなくて死活問題になってしまいます。
さて,私の場合なんですが,不思議なことにタイトルに悩んだことはあまりありません。
何だか知らないうちに私の頭にポンとコピーみたいのが出来て,それをあっさりとタイトルにしてしまう。いや,むしろ,書きたいことを考える前にタイトルというかコピーというか,そういうのが先に浮かんできて,そこを起点にして小説のアイデアが出て来て書き始める,ということさえあります。
もちろん,そう簡単にタイトルが出て来ないこともあります。そういう時は勿論考えます。その時に大切になるのは,その小説のストーリーの骨格なのです。
タイトルというのは言うまでもなく,その小説全体を象徴するものです。だから,小説全体のアウトライン,即ちどういう路線で,どういう話を書くかが決まっていないとタイトルが出来ません。よって,特に長編においては,書き始める前に作品の骨格を予め決めておくことが極めて重要です。
私の場合,長いものを書く時は大体「こういう話にしよう」という漠然とした路線はとりあえず決めておきます。場合によってはメモ帳に,「こうやって,こうやって,こういう風に話を進めていこう」というアウトラインまで書くこともあります。ラストはこうしよう,というところまでは決める必要はありませんが(むしろ最初にそこまで決めてしまうとつまらなくなってしまう気がします),ある程度の路線は決めておかないと,「アイデアらしきもの」だけで突っ走ることは難しいでしょうし,書けたとしても率直に言って小説として完成したものが書けているとは言えないでしょう。「早く書きたい!」とはやる気持ちもあるかも知れませんが,ここは一つ腰を据えて,じっくりと考えてみましょう。実はこうやって構想を練っている時が小説を書く時で一番楽しい時かも知れません。少なくとも私はそうですし,そういう作家の方も多いようです。
闇雲に突き進むばかりが能じゃありません。とりあえず立ち止まって,じっくり練ってみましょう。パン生地のようにね。その方がきっと,美味しいパンが焼けるでしょう。
4 美味しいパンの焼き方〜ストーリーかキャラクターか〜
小説の構想を練るに当たって,私は二つのアプローチの仕方があると考えています。
即ち,まずストーリーありきか,又はまずキャラクターありきか。
ストーリー重視ならば,まず大まかなストーリーを作っておいて,それに合わせてキャラクターを作っていく。
逆にキャラクター重視ならば,個性のあるキャラクターを作っておいて,ストーリーの方向性はある程度彼らに任せてしまう。
どっちにもリスクはあると思っています。ストーリー重視ならば,相当いい話を作っておかないと,キャラクターまでチープになってつまらない小説になってしまう危険がある。逆にキャラクター重視ならば,その辺にいるようなキャラクターでは話が面白くならない。よほど個性の強いキャラクターを作っておかないと取り柄がなくなる。
私は短編は多くの場合ストーリーを重視して書いているつもりですが,長編になると,多くの場合まずキャラクターから考えます。
小説というのは人間が織り成して行くドラマですから,まずそれを演じる人間がしっかりしてないといけないと思うのです。また,キャラクターがしっかりしていればある程度書き込んでいけば彼らが勝手に動いてくれるようになりますから,それほど話の展開に苦労しなくて済む。これは作者として非常に楽です(笑)。
例えばこのページで連載した「六脳」にしても,最初はストーリーなんてぜーんぜん考えてなかったのです。最初考えたのは,「とりあえず6人くらい個性の強いキャラクターを出して,そいつらを思う存分暴れ回らせてやるようなものを書いてみたいなあ」ということがきっかけでした。そもそも司法試験小説,ということさえ考えてなくて,「六脳」というタイトルを考え付いた時に,「とりあえず頭脳で闘う奴らの話にしようかな」と思い,たまたま自分がかつて大学時代,司法試験受験生の多かったゼミナールにいたことから,「それじゃ司法試験をネタにしようか,今まであまり見たことのないジャンルだし,大学時代のことをモチーフにすりゃあやりやすいし」ということでストーリーの方向性を決めただけです。本当はこの小説,最初考え付いた時は司法試験じゃなく,大学のクイズ研究会をモチーフにした話にしようかと思っていたくらいですから(あいにく私は大学時代クイズ研じゃなかったのでこの企画は断念しましたが)。結局こんな曖昧な動機でおっ始めた連載でしたが,6人のキャラクターが私の思惑通りよく動いてくれたので作者としては助かりました。まあキャラクターの描写についてもっと書き込めるところがあったのではないか,特に女性のキャラクターがステロタイプに陥ってしまっていたのではないか,という点で大いに反省はあるのですが。
そういう訳で,私は少なくとも長編小説に関しては,キャラクターを重視して書く方がやりやすいと思うし,個人的に好きですね。
逆に短編(ショートショート)については,一人のキャラクターについてじっくりと書き込めるだけのゆとりがないですから,必然的にストーリー中心の筋立てにならざるをえません。短編でも原稿用紙50枚くらい与えられていれば能力次第でできるかも知れないですが。
短いものを書けるのは,どうしても書きたいネタがある,という場合に限られてくるのではないかと思います。某か大きなテーマを持って,「俺はこれを書きたいんだ!!」という熱情で最後まで書き切ると。だから逆に,何か「書きたい」というテーマが出て来ないと書ききれないと。
また,短編では長編以上に,ポイントを絞って読ませる,また短い,それこそ一言二言の表現の中で,的確に読者に印象を与える描写をしなければならない,という難しさもあります。よく「小説は短編が基本である」とか,「短編を書ける人が真の小説の名手だ」という言い方をされますが,限られた量の中でいかにインパクトのある表現をし,言いたいことを纏め切るか,その難しさは,長編を書くのとはまた別の難しさがあるのだろうと思います。私も,「志賀直哉のような切れのある短編が書けたらなあ!!」と思うのですが,まだまだそれには程遠い現状にある,というのは,このサイトの小説を読まれた読者の皆様が感じておられる通りです。
まあともかく,「ストーリー重視」を選ぶか,「キャラクター重視」を選ぶかは,書く方々の選択に任せられるところでしょう。適性もあるのかも知れません。ただ,どちらが易しいか,というのはないと思います。どちらにしてもそれなりの難しさはあると思っています。でも,人それぞれでどっちがやりやすいか,というのはあると思いますので,書く際はその種のことを考えても良いのではないかと。
ただ,「ストーリー重視」だからと言って人物描写を軽視したり,「キャラクター重視」だからと言って話があっちゃこっちゃ飛んでどっちに行くか分かりまへんな,ということではまずいです。「ストーリー」乃至「キャラクター」を第一義に据える,というだけで,そっちに重点を置きながらもある程度まで書いたらもう片方がお粗末になっていないか,小説としての体裁がある程度保たれているか,ということを全体的に,大局的に管理してみることは必要であろうと思います。…段階が進んでくればね。
まあ今はとりあえず,書き始めるまでの取っ掛かりということですから,あまり深いことは考えないで,大まかに「この路線でとりあえず行ってみようかな」くらいまでのアウトラインが出来ればここまではOKです。ここまで出来れば原稿用紙又はワープロに向かって,1行目を書き出そうかな,というところまでは行けているでしょう。この続きはまた次回。
5 とりあえず書いてみるのだ
さて,「こういうことを書こうかな」というアイデアのようなものも出て,どういう風に話を作っていくかをおおざっぱに決めて,タイトルも決めたら,いよいよ書き出すわけですな。
小説で「書き出し」が大切だと言うことは割とよく言われていることで,小説を書こうかという方ならば意識していらっしゃることでしょう。例えば川端康成氏の「雪国」の「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」とか,夏目漱石氏の「吾輩は猫である」における「我輩は猫である。名前はまだない」などの名作におけるあまりに有名な書き出しでも分かるとおり,名作と呼ばれる作品の多くには,読者に強いインパクトを与える書き出しがある訳です。
私個人の経験から言えば,「書き出し」にはやはり割と気を使います。タイトルと同様に最初の一文が決まらないと読者の興味を魅くことはできませんから,それはある程度考えます。例えば車にしても,エンジンが暖まってから発進し,セカンド,サード,そしてトップに入れて初めて気持ちのいいドライブが出来る訳ですから,書き出しは「ローギア」のつもりでゆっくり時間をかけて,そこにまず多くのパワーを費やしてじっくり考えた方が良いかも知れません。書き出しがうまく決まってくれれば,徐々に少ない力で加速できるようになり,ドライブが軌道に乗ってくるのではないでしょうか。
勿論,小説を殆ど書いたことの無いような方に,川端康成だの夏目漱石だののレベルの書き出しを書きなさいと言っても無理な話で,最初は例え不器用でもガンガン書いてみることの方が重要であるようにも思えます。ただ,初心者なら初心者なりに思うところがあるはずで,それは是非とも書き出しに反映するべきであろうと思います。もし「書き出しに相応しいフレーズが浮かんだ!」ということになれば,惜しみなくガンガン使うべきでしょう。何にしても,読む側にしてみれば,やはり最初が肝心で,最初が面白くなさそうだったら読まないでしょうから,最初にある程度興味を持たせるような表現を載せて読者を釣ることは必要でしょう。どういうものを書きたいかをタイトルと書き出しである程度(全部見せることはありません)示唆しておいて,「興味あるジャンルだ,読みたい!」と読者に思わせ,惹き付けると。
でもまあ,書き出しを書く時は小説を書いていてかなり楽しい時に属するので,そんなに難しい事を考えなくてもある程度面白い書き出しはできるだろうと思います。誰でも最初は気合入れて書いてる訳ですから。
恐らく小説を書いていて一番しんどいのは,ある程度長くなった時に根気が続かなくなることでしょう。
しかし,本当に自分が書きたいと考えているテーマならば,そんな「書いててつまらない,飽きた」ということは決して考えられないはずです。
むしろ怖いのは,書きながら途中で自分の作品を客観的に眺めた時に,「俺,何でこんなものを書くことに夢中になってたんだろ」と思ってしまうことです。即ち,自分の作品,ひいては「物書き」としての自分に冷めてしまうこと。こうなるともう書き出した当時のモチベーションがなくなってしまい,途中でせっかく書いた作品をうっちゃらかしてしまうことにもなりかねません。
この小説論の第一回で,私は自分の事を「自分に酔っ払っていた」と形容したことがありましたが,ある程度の長さ以上の小説を書く際には,書くモチベーションを持続させるために,是非ある程度自分に酔っ払って然るべきかと。ある意味,「自分は天才だ」と思い込むくらいの,傲慢さとも言えるメンタリティがなければならないと思います。そうしないと,書いている自分,ひいては自分の作品そのものに白けてしまう。これでは作品が書けません。脳の中に,脳内麻薬「ドーパミン」をどんどん脳に絞り出して脳を少々ハイにしておく必要があるのでは,と。
何度も言いますが,ある程度軌道に乗ってしまえばその作品は大丈夫なのであって,そのレベルまで達してしまえば,あとはただ書くだけ。書きたい事を,書きたいように書けばよろしいのです。
白けない方法。これはなかなか難しいのですが,まあ多くの場合ひたすら書くことに没頭しなさい,ということ。それこそ余計な事を考えなくなるくらいまでに。あととにかく自分の才覚に自信を持って,「自分は天才だ」「将来の大作家だ」と思い込んで書くこと。
書いていて,途中で,「うっ,これは駄作だ!!」とか,「所詮俺はこの程度の作品しか書けない奴なのか」と失望することもあるのかも知れない,いや,そういうことは確かに少なからずあるのですが,とりあえずそんな疑問は無視して,最初の熱情に任せてひたすら書き進めてみましょう。直すのは後でいくらでも出来るのですから。とにかく今は,作品を最後まで書き上げるというその行為,その実績が重要なのです。さあ,とにかく,書くべし,書くべし!!
6 完成後〜次の作品につなげるために〜
さて,「書きたい」と思う事を「書きたいように」書き,「モチベーションを何とか最後まで保って」,それでついに作品が「完成した」と仮定して話をします。
最初,まず自分で読み返してみましょう。そして,全体を読んで内容的に明らかにおかしいところや,文章表現上のミス,「ここはこの表現の方が感じ出るのかなあ」というところなどをとりあえず直します。推敲と呼ばれる作業です。まあ直すうんぬんは別としても,自分で書き上げた作品を通しで読むことは重要でもあり,面白い作業でもあります。まだ書いていた時の熱くてハイな脳みそが残っている訳ですしね。
作品というのは他人に見せて評価をもらわないと意味がありません。せっかく書いたのですから,人に見てもらって,どこが良くてどこが悪いのか,忌憚のない意見をもらうべきであろうと思います。
しかし,その前に。完成して最初の推敲をしてからある程度間を置いて,もう1回自分で自分の書いたものを眺めてみましょう。
大体,冷却期間を置いてからもう1回見ると,その作品の至らないところが多く目について来るはずです。ひどい場合は恥ずかしくなって,「何だって俺はこんなものを素晴らしい,素晴らしいと思いながら一生懸命書いていたのだろう!」と自己嫌悪に陥ることも1度や2度ではないであろうと推察されます。
そういう場合は,その作品はひっそりと誰の目にも触れぬように机の引出しの中とかベッドのシーツの下とか(←エロ本じゃないっちゅうねん!)に隠し,なるべく人の目に触れないようにすべきです。しかし,作品の骨格そのものは元はと言えば,自分が選んで「書きたい」と思ったテーマを書いている訳ですから,これを捨てては何にもなりません。うまく表現できなかった原稿でも,取っておけば今後の役には間違いなく立つだろうと思います。例えば,同じアイデアでもっといい切り口が見つかった時に新しくより良いものが書けるかも知れないですし。
さて,幸運にも冷却期間を置いてからも「やはり面白い!」ということになれば,いよいよ自分以外の他人に身を委ねてみましょう。
この時,最初に見せるべき人は十分に吟味してから選ばなくてはなりません。下手な人に見せてしまうと,指摘というより重箱の隅をつつかれまくって罵倒に近い事を言われてしまい,「ワタシ自信なくしたアルよ。国に帰るアルよ」という心境になりかねない。
逆に誉めてばかりいる人も信用なりません。大体それでは単なる自己満足のみに堕してしまい,何の進歩も得られないでしょう。本当に誉めるしかないような完璧な作品なら別ですが,そんなものを書ける人は恐らくいません。
まず最初の他人に見せる時は,@親しい友人であること,A同好の士(小説を書く人)であること,Bきちんと真面目に自分の作品を読んでくれるという信頼があること,C長所7割,短所3割くらいの割合で指摘してくれること,というくらいの人がよろしいでしょう。ってこういう人はなかなかいないんですが,私の友人に幸運にもそういう人がいたので,私は何度か彼に作品を読んでもらい,批評をもらったものでした。それでも最初は他人に見せるのがこっぱずかしくもあり,また他人の批判を受けるのが恐ろしかったものです。この,「他人に見せて,真っ当な批判をもらう行為」ができればある程度自信がついて,また次に「人に見せる作品」を作っていく,とつながっていくのではないでしょうか。
そして,その段階をクリアできたら,次はいよいよ見知らぬ他人に見てもらう段階に入ります。
それまでは,ある程度気心が知れた優しい人で,小説を書く苦労も知っている,そういう仲間達の温かい目で見て貰えたわけです。文芸サークルとかがやっている「同人誌」がこれに当たります。
しかし,もしプロになろうと考えるならば,そういう人ばかりが見てくれるわけではありません。プロになるためには投稿などをして,プロの編集者や選考委員の人々のシビアなシビアな視線で見てもらわないといけない。そして幸運にもそう言う人達の目を潜り抜けてプロになれたとしたならば,今度はもっとシビアな,一般の不特定多数の読者の視線の中に飛び込んでいかなければいけません。これは度胸が要ります。場合によってはそれこそ「国に帰るアルよ」級の精神的ダメージを食らうことにもなりかねません。
かく言う私にしても,「機会がないから」とか「自分の書いた小説に該当する文学賞がないから」とか「まだ投稿するレベルに達するような作品が書けていないから」等の理由を付けて未だに投稿しないでいるのですが,実際にはこういう「優しくない視線」の中に飛び込むのを恐れているのかも知れません。何せ「友人の優しい視線」に自分の作品を晒すのでさえ何度も逡巡してなかなか出来なかった意気地なしですから。だからここから先はどうこうしなさい,という偉そうなことを言う資格は私にはありません(まあ他のことについてもないんですけど)。ただ,やはり「人に見せて,楽しんでもらいたい」という「エンターテインメントの精神」だけは持っていて欲しいと思いますし,私もそれだけは少なくとも意識して作品を書いていきたいと思っています。
はなはだ稚拙ではありますが,とりあえず決意表明をさせていただいて,「私的小説論・序論」の締めとさせていただきたいと思います。
ここまではとりあえず,小説を書いていく流れに沿って話を進めました。次回からの「本論」ではあまり順序にはこだわらず,小説を書く上で考えていること,疑問に思うことなどをぽつりぽつりと書いてまいりたいと思いますので,興味のある方は引き続きお付き合い下さい。