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2001/10/7-12/31 松江市天神町「藤忠ビル」で開催中
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エピソード特集:自動車復元プロジェクト


01-c. 2002/02/23(土)
ろくさん、自動車に再会する(前篇)
友達からの手紙
大久保和夫


自動車製作者のひとり、大久保和夫さん(東京在住)が、製作当時のお話と自動車との再会について寄稿してくださいました。2回に分けてお届けします。



今回の急な帰郷の発端は、中学生時代の友人藤原君からの手紙でした。

「道路拡幅のため(平成)13(2001)年2月、会社を移転しました。空き家になった社屋を解体するまで、有志の人たちのプロジェクトができ、色々なイベントが行われています。中のメンバーの一人が倉庫の中を探して眠っていた例のクルマを見つけだし、機械屋のメンバーに頼んで整備をして貰ったところ、エンジンもかかり、何とか動くようになりました。年末までは、旧社屋の中に展示してあります。是非ご高覧を!」

そして、彼と、一緒に作った友人の1名と、「あの」クルマが写った1枚の写真が同封されていたのです……。

で、矢も楯もたまらず、雪の中国山地越えに備えて急遽入手したザイルチェーンをレガシーに積んで、娘夫婦と我々夫婦の4名のロングツアーが始まったのは、12月30日の午前7時でした。

ここで、我々のクルマについて、前に、大学の自動車部のOB会誌に載せるために作ったメモがありますので、それを元にご紹介したいと思います。

【私の中学生時代(松江):「くるまを作ろう!」】
中学校に進むと、新しい先生や友達ができました。特にお世話になったのは、職業科と数学の担当教諭の陰山慶一先生(通称「かば」先生)。海軍の航空兵の生き残りで、授業の半分はB29との空中戦を中心とする戦争の話だったような気もする。

古い、くたびれはてたオートバイ(「ポインター」とか)に戦闘帽、皮ジャンに白いマフラーという特攻隊スタイルで学校に通って
みえていました。職業科の実習室には、自動車のエンジンやミッションの模型もあって、結構勉強になったと思います。

ある日、小学4年生のころから時々買い始めたモーターマガジン(今回確認したところ、1958年1月号でした。表紙は取れて、ボロボロだけどまだ持っている)を見たら、「ミジェット・ミジェッティ製作記」なるものが載っています。鋼管でパイプフレーム
シャーシーを作り、汎用のエンジンを乗せた子供用のフォーミュラタイプの自動車です。

何よりも魅力的なのは、「道路上を走っている写真」!!

中学生になると、学校に、発売されたたばかりの「スーパーカブ」に乗って長距離通学する先輩も出てくるし、仲の良いバイク屋さんの息子や自転車屋さんの息子の店に行っていると、バイク(ヤマハのYDやホンダのドリーム250等)がくるけど、中学生では免許が取れない。自分たちで作ったものなら、ひょっとすると「玩具だから」という理由で大目に見てもらえるのでは、という希望的観測の下に、自転車屋さんの息子(多久和富義君、通称「とんちゃん」。今は山陰のマウンテン・バイク界の重鎮)、金属・鋼材屋さんの息子(「藤忠」の藤原秀博君、通称「ひーちゃん」)、それに松江工業の先生の息子(新石正弘君、通称「かばさん」、東京在住)と私(大久保和夫、通称「ろくさん」)、の4名で、自分たちの「くるま」を作るプロジェクトをスタートさせたのです。

昭和34年(1959年)、中学2年生の夏頃のことです。

設計の基本構想は、次のようなものでした。

■1.   エンジン:.バイク屋さんの裏庭に放置してあるバイク(トーハツ製の98CC「バンブル号」)を貰い、2段ミッション(ハーレー・タイプのタンク・サイドの手動式)と共に利用する。
■2.   シャーシ:アングル鋼材を溶接してラダーフレームを自作する。
■3.   車輪とタイヤ:子供自転車用のものを購入する(最大の出費)。
■4.   ステアリングホイール:自転車屋さんにあった、古いダットサンのものを利用する。
■5.   デフは、後輪のトレッド幅がイセッタ(たしか、80センチあまり)と大差ないので、省略。
■6.   ブレーキ:後車軸に自転車用のバンドブレーキをつける。
■7.   ブレーキとクラッチを両足で作動させると、アクセル・ペダルが付けられないので、自転車のブレーキ・レバーを利用して、ハンド・スロットルで作動。

当初は、サスペンションも設けず、何とか二人乗りにしようと考えましたが、凸凹をまともに受けると壊れる心配があったこと、コンパクトにしたいといったことから、今様に言えば、「前リーディングアーム、後ろトレーリングアームのライブアクスル」のコイル・
サスペンション、左ハンドル(!)の運転席の右側に助手の代わりにエンジンが座り、後輪をチェーンで駆動する(ミドシップ!)というタイプに決定しました。(ホンダの「サイド・バイ・サイド」という入門向けレースカーが同じレイアウトです)

当初は、自分たちで鋼材などの材料を買って溶接屋サンに持ち込むということでやっていました。しかし、だんだん大きくなると組み立てる場所もないし、ベアリング回りとかステアリング回りの処理など、中学生の手に余ることが多くなり、作業が行き詰まってきました。そこで、新石君のお父さんに頼み込んで、工業高校の工場と機械器具類を何とか使わせて頂けることになりました。旋盤やボール盤、ノギスや定盤などの本格的な工具と、先生のアドバイスにより、一つ一つの部品を手作りして、ようやく何とか見通しがついてきました。毎週土日をフルに使っての「工作」です。

(当時の皇太子殿下と正田美智子さんの婚礼の儀式をカラーテレビで見たのも、作業の合間の工業高校の校長室でした)

ここで突如起きたのが、私の家族の東京転居の話です。結局車が出来上がったのは、引越の数日前。春休みの学校の校庭に引き出し、押し掛けでエンジンを掛け、走り出したときの感激は忘れられません。昭和35年(1960年)の3月のことでした。

(なお、この車は、かつての仲間が社長をやっている鋼材屋さんの倉庫の天井裏に、グリース付けで保管してもらっています)

これが、藤忠プロジェクトで発見・復元していただいた我々のクルマだったわけです。

(後篇につづく)

ろくさん、自動車に再会する(後篇):40年前の「隠し子」との対面


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