出雲思想


古代出雲では 風葬・水葬 が行われていたという。
航海集団を抱えていた出雲は、長い期間出雲を離れて大海原を駆け巡らなけれ ばならなかった。その期間中に死んだ身内には当然会えないということになる。 また航海中に船上で死んだ遺体は、暑い最中ほっとけば腐ってきて、そのせいで 病気が蔓延する。おそらくその理由から死体を海に遺棄することもあったであろ う。そこで古代人は考えたはずである。いったい死ねばどうなるのだろう、と。 そこでこの根本的な疑問に答えたのが 風葬・水葬 の儀式であった。風葬は追葬儀式である。人間は死ねばしだいに肉体は腐り 、やがて骨だけになる。これを冷徹にみていた古代人達は、肉体は滅びれば自然 に帰るが、後に残った骨にその死人が宿ると考えることによって追葬儀式を完成 させた。そして不慮の死を迎えた人は海に流せばまた海がその人を再生させて生 まれ変わってこの世に戻ってこれるという思想を受け入れた。風葬によって骨と なったものはどのような処置がなされたのか。いくら骨とはいえ永遠に残るもの ではない。そこでその骨は山に丁寧に埋葬された。山の中で最も普遍性の高いも のは岩である。そしてこの普遍的なものにその人が宿るという思想に移行するの である。いわゆる 山岳信仰 である。これが出雲の初期思想である。

縄文から弥生時代にかけて稲作栽培が広がるまでは古代人は移動型の民族であ った。そのためこの 風葬・水葬 の儀式はおそらくほとんどの人々に受け入れられたであろう。そしてこの初 期思想はそれぞれの集団内で神殿を築くことによって第二形態に発展していく。 その初期は神殿におそらく首長の骨が置かれていたはずである。これは移動型の 古代人にとってありがたかった。神となった首長を移住のときに運ぶことが可能 となったからである。

では出雲はどうなったのか。出雲も後に神殿を築くようになる。有名な出雲大 社などである。しかしその前に出雲は 青銅器文化 を基盤に神々の集合を可能にする思想を完成させる。それが 神在月信仰 である。

当時の人たちにとって死の世界とはどのようなものだったのか。彼らにとって 死の世界は見えないがすぐ側にあるものであった。古代人達にとって神は人であ った。その人々が自然に宿ることによって様々な神を現出させることができた。 すなわち死の世界は見えはしないが大地から離れないものであった。当時勢力の あった出雲は 青銅器文化神在月信仰 によってその世界を出雲に集合させるという思想を生み出した。ここに出雲 の第二思想が誕生した。

しかしやがて稲作栽培が定着すると人々は定住型生活に重きを置くようになっ た。これで神殿の移動は必要なくなり、定住型に見合った古墳文化が花咲いた。 そして日本が統一されていく過程で古墳はより大型になり、権力の象徴となって いった。この過程で出雲の思想は効力を失ったかのように見える。しかし私は一 つのきっかけから出雲の思想は全くすたれたわけではないと気づいたのである。

そのきっかけとは一般の人たちはどのような埋葬儀式を行ったのだろう、とい うことを考えた時から始まる。これまで挙げた 風葬・水葬山岳信仰 などは高貴な人の儀式に限られている。おそらく一般の人は土葬を行ったの ではないか。当然、資料に乏しいためこれは推測にすぎない。ここで問題なのは 、高貴な人と一般の人を分けたその根本的な思想は何だったのか、ということで ある。

そのことは「出雲風土記」の記述から窺い知ることができる。古志郷の記述に越の国から移住してきたためこのような名がついたとある。そして出 雲人が移住した場所といわれる越は高志と書かれていた。ここで気づくのは「志」という文字を当てていることであり 、両方とも困難を乗り越えて新しい定住の地を開拓していったということである 。

「志」の由来は当然中国である。動乱の春秋・戦国時代、中国の戦士は「士」 と呼ばれた。そしてこの「士」が思想として純化され「士大夫」の道が出来上が る。時代を経て日本でもこれに近い思想が完成する。「武士道」である。そして 「士」の心を「志」と呼んだ。

当時の古代人の雰囲気を思いやるならば、「志」とは「為し難いことをなす人 々の心」といった意味合いだったのであろう。古志郷高志と名付けられた意味を考えるならば納得がいく。一般人と高貴な人々を分けて いたものには当然権力の違いがある。しかし思想上の分け隔てはこの「志」によ るものだったのではなかろうか。そしてこの「志」こそ出雲の思想の基盤であっ たのであろう。高い「志」を持ち、それを成し遂げる者は尊敬され崇拝される。 この「志」のもとに出来上がったのが出雲の神々、はては日本の神々であり、そ してこの「志」の集まるところが出雲であった。

八百万神はこうした過程を経て出雲に集うことになったのである。出雲の思想 は八百万神が集うことにより、全ての思想を受け入れる土台を創り出した。そし てその基盤が「志」の有無であった。このような思考過程を経て出雲の思想は普 遍性を持つにいたる。ここから導き出せる出雲の思想は、本人が「志」あるかぎ り全ては肯定されるということである。

日本は統一され、仏教の導入によって死の世界は地上から切り離された。この とき思想的な整理を行わなかったため、日本に八百万神が残ることになる。そし て神仏習合の折衷策で思想的に未解決のまま凍結される。それはこの「志」の道 が絶えることなく続いたためである。その後何度も新しい思想が入ってきたが全 て日本は受け入れている。一神教を崇拝する西洋諸国から見れば当然異質な国に 見えるであろう。しかし日本はこれを恥ずかしく思う必要はない。むしろ誇りに 思ってもよいくらいである。宗教や思想というものは本来閉鎖的なものである。 しかし条件付きではあるが日本は全ての宗教や思想を受け入れる土台を持った。 これが思想であるかどうかは別としてもそこには人間としての逞しさがあるでは ないかと思うのである。


出雲王国をまとめたのは大国主命であり、彼の集団は航海集団であったといわ れている。航海には指針となるナビゲーターが必要である。海から出雲を眺めた ときに最も目に付きやすい北山の頂上、現在の鼻高山を「出雲風土記」では多夫 志山と呼んでいた。これは「多くの士大夫の志を抱える山」という意味である。 航海の目印をこのように呼んだ出雲人の心が伝わってくるようである。私はこの 「志」こそが日本の思想のナビゲーターでないかと考えるのである。そしてそれ は今も変わらず全ての日本人の心に潜在しているものである。

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