16「は行」で始まる作品


ハッピー・フューネラル(大腕)
北京の故宮で「ラスト・エンペラー」のリメイクを撮っていた映画の巨匠ドン・タイラーは,アイデアに行き詰まっていた。ある日,タイラーは,自分の製作記録映画を撮っている中国人カメラマンのヨーヨー(グォ・ヨウ)から中国では70歳以上生きた人間はその大往生を祝う葬式「喜葬」をする,ということを聞き,「自分の葬式も喜葬にしてほしい」とヨーヨーに頼んだ後,突然倒れ,危篤状態になる。ヨーヨーは,もしタイラーが死んだら,彼の遺言どおり「笑って泣ける」葬式をしようと準備を始める・・・
中国の正月映画で,「スパイダーマン」よりもヒットした人気コメディということで期待していたが・・・??。この監督の描き方がそうなのか,外国人が出演しているからなのか,人間関係や中国人の生活の描き方が浅く,さらりとしていて,中国映画っぽくないのが特徴だろうか。
葬儀のためのスポンサー集めが,最大の見どころで,社会主義中国の資本主義と変わらぬ商業(広告)社会を皮肉っている。期待していたグォ・ヨウの演技も今ひとつで,『活きる』と比べると,特筆すべきところはないな。
(2001年中国・アメリカ/監督:馮小剛/出演:葛優/2003.10.17サロンシネマ)
遥か西夏へ(西夏路路迢迢)
中国西北部(今の寧夏あたり)の黄河のほとりに遊牧民のタングート族が打ち立てた西夏の国から,1087年,徴税のためイエ・リーフー(野利狐)を頭領とする総勢10名の分隊が漢族の村に派遣された。イエ・リーフーは,西夏皇帝の命により,男子10名を人頭税として徴収に来たのだった。時代は,西夏と契丹族の遼,漢族の宋が三つ巴の抗争を繰り広げていたころで,荒涼とした砂漠や谷を抜けて,契丹族の襲撃から10人の子供を守りながら,1000キロの道のりを遥か西夏まで連れて帰る旅の物語だ。
連れて帰る子供たちは西夏の兵士として育てられることになっているため,旅の道中,とても大切にされる。大人の男連中がやさしく食事を食べさせたり,風呂に入れたりして,かいがいしく子供の面倒をみる様子がとても面白い。契丹に襲われた時も,彼らは自分の命を犠牲にしてまで子供たちを敵の矢から守ろうとするのだ。
子供は1人ずつ籠に入れて蓋をし,馬に乗せて運ぶというのも面白かったが,このため,途中まで1人足らないということことに気付かず,責任を感じた頭領が村に引き返したが契丹に襲われ,子供の代わりに途中で捕まえた妊婦を連れての珍道中が始まることになる。男子を出産後,子供だけ奪われて自分は置き去りにされたその妊婦・ヤージエが,赤ん坊を取り戻そうと,イエ・リーフーたちの後を「我的娃娃(ウォーダ ワーワ)」(私の赤ちゃん)と叫びながら,ずーっと歩いて追いかけてくる母親としての執念がすごかったです。
結局,西夏に戻った時には,イエ・リーフーは部下を6人も亡くしていた。その中には,彼が昔,契丹から奪って来て,息子同然に育てていたヨウヤンもいた。長い旅をした後に,イエ・リーフーがわかったのは「親子の愛」の大切さ。だから,西夏の城に入る手前で,彼はヤージエと赤ん坊を,部下が反対するのを押し切って帰そうとする・・・
西夏を取り上げた映画としては,わが国の『敦煌』がまず思い浮かびます。扱った時代としては,『敦煌』の方が古いです。西夏が成立する前から物語が始まってますから。『敦煌』には,西夏の初代皇帝の李元昊(りげんこう)率いる西夏の軍隊や西夏文字なんかが出てきたりして,また違った面白みがあります。西夏という国のことが知りたければ,そちらも併せて観ればいいでしょう。
映画の中で印象に残った言葉としては,「少一個(シャオ イーガ)」(ひとり足りない)でしょうか。二度出てきました。一度目は,漢族の村からさらった子供の人数を点検した部下が,イエ・リーフーに報告した時。次は,契丹との戦闘で死んだ部下の遺骨袋を,生き残った部下が持って来た時。五つしか持って来なかったので,「ひとつ足りないぞ」と。実は,イエ・リーフーの息子・ヨウヤンは,自らが囮になって契丹の群れの中に飛び込んで行ったので,彼の遺体は収容できてないのです。それを部下に言っても無理な話なんですが,イエ・リーフーとしてはやりきれなかったんでしょうね。
(1997年西安映画製作所/監督:芦葦/2003.1.18video)
晩鐘
1945年日中戦争が終わりを告げた秋,八路軍兵士と日本兵の対峙を軸に展開。
(1987年八一映画製作所/監督:呉子牛/映像文化L)
悲劇の皇后〜ラストエンプレス(末代皇后)
1922年,清朝最後の皇帝・溥儀に彼と同年の17才で嫁いだ皇后・婉容(えんよう)の悲しい生涯を描く。皇妃・文繍(ぶんしゅう)と2人の貴人も順番に出てきます。1912年に溥儀は皇帝を退位させられていたので,皇后というのが正しいのかどうかよくわからないが,紫禁城の中では,旧清朝の皇族の身分と財産を共和国政府に保証させており,ぜいを尽くした婉容の輿入れの儀式は王朝時代さながらに北京の街中で繰り広げられたことからも,あながちまちがいともいえないんだろう。
それにしても,溥儀は妻を飾り物か玩具くらいにしか考えておらず,夫婦間には愛情といったものなど存在しなかったらしく,皇妃・文繍は,9年間耐えたが,割と自由に行動できた天津租界時代に,愛のない生活と第二夫人という身分から逃れるため,ついに皇帝に離婚を申し出る。(溥儀には大変不名誉なことだった)
皇后・婉容も溥儀との形だけの夫婦生活にはずっと満足しておらず,寂しさからアヘンに手を出したり,満州に移ってからは外出の自由もなくなり,むなしさから溥儀が日本に行っている間に浮気をし,懐妊してしまう。そして,子供が死産であったことを知り,婉容は以後正気を失ってしまいます。(浮気の相手や赤ん坊の生死が他の映画と少し違うんだが,まああまり気にすまい)
婉容を演じたのは,『火龍』で溥儀の戦後の奥さん(5人目)の役をした潘虹(パン・ホォン)でしたね。潘虹には,だんだん身を滅ぼしていく皇后の役はあまり似合わないなあ。この人は,やはり働き者の労働者の役,特に医者とか看護婦の役がいいですねえ。(個人的趣味?)
溥儀は若かりし頃の姜文が演じています。姜文にとっては,映画デビュー作です。それなら,婉容を劉暁慶が演じていたらこの映画,もっとどろどろしたものになってよかったかな?
溥儀が文繍と離婚した後,17才で2人目の第二夫人となった祥貴人(譚玉齢)は,とってもかわいかったですね(これまた個人的趣味)。彼女は街で抗日分子のビラを拾ったことから関東軍に目を付けられ,その後,病気の診療にかこつけて謀殺(?)されてしまいます。婉容との冷え切った夫婦関係の埋め合わせに彼女をこよなくかわいがっていた溥儀は深く悲しみ,彼女のために盛大な葬儀を執り行いますが,その最中に,3人目の第二夫人として15才のまだあどけない福貴人が関東軍の吉岡に手を引かれて宮廷に連れて来られます。不安そうな彼女の顔のアップで映画が終わるところが,彼女のこれから先の苦難の人生を暗示している。福貴人(李玉琴)と婉容のその後は,『火龍』に少し出てきます。そちらも併せて観ればわかりやすいでしょう。
(1985年中国・香港/監督:陳家林/出演:姜文,潘虹/2000.10.25video)
美と芸術の上海アニメーション
上海美術映画製作所の制作したアニメ12作品を3つのプログラムに分類して上映したもの。そのうち,BプログラムとCプログラムの7作品は,2002年に「上海アニメーションの奇跡」と題して上映済みです。残るAプログラムの5作品の内容は,次のとおりです。
■おたまじゃくしが母さんを探す(1962年/16分/水墨画)
水墨画アニメーションなのに,おたまじゃくしの動きがとても生き生きと描けている。
■三人の和尚(1980年/20分/セル)
ノッポとチビとデブの三人の和尚が,音にあわせてテンポよく繰り広げるユーモアたっぷりのお話。
■鴫(しぎ)と烏貝(1984年/29分/切り絵水墨画)
シギとハマグリではなく,シギと烏貝による「漁夫の利」の故事を基にした作品。シギの細かい動きがよく出ている。
■日童(1984年/29分/切り絵)
村から火を奪い去った悪の大王のところへ,勇敢な一人の少年が火を取り戻しに行くという冒険物語。切り絵による画面構成が独特の雰囲気を出している。
■鹿を救った少年(1985年/19分/水墨画)
老父母と一緒に山奥に住んでいる動物好きの少年が,自分の身を犠牲にして,鹿狩りで殺されそうになった鹿の命を救った話。
     
(上海映画製作所/2010.8.7〜8.13横川シネマ)
人,中年に至る(人到中年)
「人中年に至れば万事休す」というよりも,若いころに文革の嵐に巻き込まれた世代はいま中年になって新たな苦悩を抱える姿を描く。
40才になる眼科の女医が学校を出てから働きづめで倒れてしまう。社会がやっと落ち着きを取り戻したとき,国の発展をささえてた世代は倒れてしまう。知識人の海外流出や党幹部夫人の傲慢さを描くなど新しい中国を感じさせる。
(1982年長春映画製作所/監督:孫羽 王啓明/出演:潘虹/教育TV)
ひとりっ子(失去的夢)
息子の教育のため都会に引っ越してきた母親だが,厳しく管理されるのがいやな息子は下がった成績表を隠す。それがばれて逆上した母親に殺される。
(1989年瀟湘映画製作所/監督:董克娜/1991.3映像文化L)
一人と八人(一個和八個)★★★★★
1941年,抗日戦争中の河北平原。追撃してくる日本軍から逃れようとしている八路軍の小部隊があった。その部隊の牢には,8人の犯罪者(土匪やスパイ,脱走兵など)が入れられていたが,ある夜,スパイの嫌疑をかけられた八路軍の王指導員がその8人と同じ牢に入れられた。犯罪者たちは,ちょうど脱獄の準備をしていたところで,それを邪魔されたため,最初は王指導員に恨みを持った。
しかし,部隊の移動に合わせて9人が縛られたまま一緒に行動し生活するうちに,8人のならず者は,次第に王指導員の人柄にひかれ,彼の身の潔白を信じるようになる。そして,日本軍の蛮行の跡を見たり,王指導員から熱のこもった抗日の話を聞くうちに,次第に彼らにも抗日の意識が芽生えてくる。
そんな折り,部隊の隊長の命で犯罪者の処刑が行われることになったが,その最中に部隊が日本軍に包囲されてしまう。日本軍の激しい攻撃を受け,八路軍の兵士が次々と倒れていくのを見たならず者たちは,たまらず,自分たちも日本軍と戦わせてほしいと申し出る。縄を解かれたならず者たちは,王指導員の指揮の下,ありあわせの武器を手に日本軍に立ち向かう・・・
日本軍と一番勇敢に戦ったのが八路軍の兵士ではなく,ならず者たちだったというところが特筆すべき点だろう。犯罪者の処刑シーンでも,八路軍の隊長より,銃殺されそうになる王指導員やならず者たちの方が好漢っぽく描かれている。
こういった点が問題となったからであろうか。この映画は,第五世代の監督作品としては最初に完成したにもかかわらず,なかなか国外での上映許可が下りなかったそうだ。だから,日本でも陳凱歌の『黄色い大地』の方を先に見ることになったわけだな。
日本軍との戦いで生き残った数人が逃げる途中で,若い看護婦が日本兵に捕まり,なぶりものにされそうになった時,陰でその様子を見ていたならず者の一人・痩煙鬼が,一発だけ残っていた弾丸で遠くから看護婦を撃ってやるシーンがいい。その後,痩煙鬼は立ち上がって銃を捨て,「老子中国人(おれさまは中国人だ)」とつぶやきながら,くるりと背を向けて去っていく・・・
ラストの王指導員と改心したならず者の一人・粗眉毛の別れのシーンもカッコいいですね。
(1984年広西映画製作所/監督:張軍サ/撮影:張芸謀/出演:王指導員(陶沢如),痩煙鬼(zai春華),大個子(辛明),スパイ(謝園)/映像文化L,2001.12.11renewal)
火の鳥(太陽鳥)
中国の少数民族・白(ペー)族出身の舞踊家・楊麗萍(ヤン・リーピン)が彼女自身の体験を基に,超一流の踊りもその中に取り入れて作った半分・芸術的作品。人気絶頂の独創的な舞踊家・タナ(塔納)の現在と,雲南省の山奥の村で育った彼女の少女時代の回想シーンとが絡み合って話は展開する。
主人公・タナを演じる楊麗萍の,独特の身体表現による踊りの素晴らしさに唖然としてしまった。しなやかな身体に,指先や腕の細やかな動き,さらには爪の先までも使って表現する彼女の踊りは,とても我々と同じ人間の身体とは思えない。特に,関節のひとつひとつが自在に動き,まるで波打つように見える手の表現がすばらしいが,こればかりは,映画を見てもらわないとわからないだろう。
「凍てついたヘビ」,「男女のペアでの踊り」,「孔雀の舞い」など,幾つかの踊りが披露されるが,やはり,最初の「月光の舞い」が一番よかった。月光のシルエットで見せる,柔らかい身体全体を使ったきびきびした踊りは,古代エジプトの壁画の模様か何かを見ているみたいで,とても人の体とは思えず圧巻でした。
それに比べ,主人公が心因性のストレスから失明するというストーリーの方は,少し取って付けたような気がする。タナがフラッシュのライトを浴びて発作的にめまいを起こし,目が見えなくなる状態に陥った時に幻想するのが,雲南での少女時代。そこでは,タナがなぜ「孔雀の舞い」を踊らなければならないのかということが語られていく。
ラストで,失明したタナは観客のいない舞台で「孔雀の舞い」を踊り,「モリエナ」という自己陶酔の境地に達する。それこそ,少女時代からタナの心の中をずっと占め続けてきた村の祈祷師・マオティエン(毛天)が,村の男女の愛のために孔雀の羽根を付けて一心不乱に踊った時に達していた境地と同じものだった。タナの「孔雀の舞い」は,指と爪で孔雀の顔を表現したのは見事だったけど,孔雀に似せるためか長いふんわりとしたスカートを着用したため,せっかくの腰から下の身体の線が隠れてしまい,イマイチでした。
少数民族の村のシーンでは,タナの母の出産を励ます女たちの元気な踊りがおもしろかったですね。村の女性の衣装は,大理に旅行した時に出会ったペー族の民族衣装(白い大きな帽子が特徴)とは違っていました。タナのマネージャー兼恋人・ウェン(袁文)の役で出ている共同監督の王学圻(ワン・シュエチー)にとっては,初の監督作品でもあります。
(1997年雲南映画製作所/監督:王学圻,楊麗萍/出演:王学圻,楊麗萍/2002.2.8video)
胡同(フートン)のひまわり(向日葵)
1976年,文革末期の北京の下町。胡同に暮らす9歳の向陽(シアンヤン)とその母のもとに,農村へ強制労働に行かされていたシアンヤンの父親が,6年ぶりに帰ってきた。農村での迫害で右手を負傷し,絵を描けなくなった父は,シアンヤンに対し,叶わなくなった自分の夢を実現させるため,厳しく教育していく・・・
「胡同(フートン)」というのは、北京の伝統的な路地・横町のこと。主人公の「向陽(シアンヤン)」は,生まれたとき,中庭にひまわりが咲いていたことから,そう名付けられた。
映画は,1967年にシアンヤンが生まれるシーンで始まり,2000年にシアンヤンの妻が出産したところで終わるが,厳格な父親とこれに反抗する息子という図式で,30年に渡る物語が展開する。中心となるのは,1976年の少年期,1987年の思春期,1999年の画家としての成功期だが,この父親は30年もよく頑固一徹でいられるな,と感心する。
「父と子の葛藤」というテーマだけならどこの国でも映画を作れそうだが,この映画は,文革や唐山地震,毛沢東の死,四人組打倒,改革開放,北京オリンピックによる胡同の取り壊しといった,激動の中国史を,物語の節々に関連付けながら進めているため,観ている者を飽きさせない。
シアンヤンは,成長していく3つの年代ごとに,演じる俳優が変わる。これに対し,シアンヤンの頑固な父親を演じる孫海英(スン・ハイイン)と生活感に長けた母親を演じるジョアン・チェンは,ずっと変わらない。だから,この映画は,胡同に咲いたひまわり(シアンヤン)の成長を願う両親の物語といった感じもする。
文革との絡みも,それほど執拗ではない。父親が密告で強制労働に行かされ迫害を受けたことや,そうした経歴のためにアパートの選考などで不利益をこうむるというシーンはあるが,積極的な当局批判はしていない。むしろ,父親の頑固で意地っ張りな性格を際立たせるのにこうした時代背景をうまく利用している。
出産のシーンが2度出てきたが,中絶のシーンも2度出てきた。思春期の恋人・ユィホンと現代の妻・シャオハン(小韓)が,その当事者だが,シアンヤンの父や,夫であるシアンヤン自身の側の理屈のみ強調され,彼女たち自身の気持ちの描き方が少し希薄な気がした。子供をおろすのは大変なことだと思うが,かかる事態になっても彼女たちの親も登場してこない。いろいろ登場人物が増えると,映画が主題からそれるので,やむを得ないのかな。
最後に,監督は,『こころの湯』でもそうでしたが,古い伝統的な住宅が再開発で取り壊され瓦礫の山と化していくシーンを多く撮っています。近代化と引き換えにとんでもないことが進められているということを,我々に警鐘しているのでしょう。
(2005年中国/監督:張揚/出演:孫海英(父),ジョアン・チェン(母),劉子楓(隣人)/2006.10.9サロンシネマ)
胡同(フートン)の理髪師(剃頭匠)
北京の胡同(フートン)で一人暮らしをしている93歳の理髪師・チン(敬)じいさんとその友人たちの日々の生活をドキュメンタリータッチで描く。
チンじいさんは,毎日,夜は9時に寝て,朝は6時には目を覚まし,入れ歯をはめ,鏡を見ながら白髪を整え,一日に5分ずつ遅れる時計を合わせる。午前中は,古くからのなじみ客を訪ね,出張散髪をし,午後はマージャンをしながらおしゃべり,といった毎日ほぼ変わらない生活をしている。
主人公を演じる(?)のは,実在の理髪師・靖奎(チン・クイ)さん自身であり,他の出演者も実際にその胡同の辺りに住む素人が多いという。胡同の様子も余すところなく描かれており,狭い路地をチンじいさんが三輪自転車で駆け回るシーンなど,中国好きにはうれしい限りだ。
もうひとつのテーマは「死」だ。チンじいさんのなじみ客は,みんな高齢だか,それが次々に死んでいく。きちんとした性格のチンじいさんは,自分の葬儀のことを考えるようになる・・・
胡同を描いた作品としては,『こころの湯』『北京好日』がある。『北京好日』は,この映画と同じように老人が主人公だが,登場する老人たちは皆,元気がよくて生き生きしている。『こころの湯』にも,主人公の老人を演じる朱旭が死ぬというくだりがあるが,残された家族には希望がみえる。どちらもこころ温まる映画である。
それと比べると,この映画は,やはり後半が少し暗いなあ。一人で胡同に住んでいる老人を気遣う家族たちの愛情が見られないのだ。チンじいさん自身も,離れて住んでいる家族に迷惑をかけまいとして,自分の葬儀を前もって自分で準備しようとしている。なんかむなしくなる。もう少し明日への希望が持てる映画にしてほしかった。
まもなく開幕するオリンピック(2008.8.8)のために再開発により取り壊されることになる古い街並みというのも,主要な場所を北京の胡同(フートン)に選んだ映画には欠かせないテーマになっている。残念なことだが,どうにもならんのかな。
(2006年中国/監督:ハスチョロー/出演:靖奎(チン・クイ)/2008.7.23サロンシネマ)
胡同(フートン)模様(小巷名流)
田舎町の胡同に済む司馬二哥が自らの体験を書いた小説を解説しながら進む悲喜劇。回想するのは文革中の1970年。
(1985年峨眉映画製作所/監督:従連文/出演:朱旭/映像文化L,教育TV「アジア映画劇場」)
ふたりの人魚(蘇州河)
中国映画の第六世代に属するロウ・イエ監督の作った,現代の上海を舞台とする都会派映画。黄浦江(こうぼこう)支流の蘇州河(そしゅうがわ)界隈が物語の中心舞台だが,この河は生活河川に成り果て,河面にはゴミが浮かび,水も汚く濁っている。河の周りの街の様子も上海の表通りとは異なり,暗くて華やかさもない。そこに暮らす人々も同じように情熱がなく冷めている。
物語は,ビデオの撮影屋の“僕”のナレーションで進められ,“僕”の登場シーンでは,カメラと“僕”の目線が一致し,“僕”は最後までカメラの前には出てこない。
映画は,“僕”とナイト・クラブの見世物として人魚に扮して水槽の中を泳いでいるメイメイ(美美)のカップル,そしてバイクで荷物の運び屋をするマーダー(馬達)と彼の運ぶ荷物(?)だったムーダンという少女の2組のカップルの愛を中心に描く。
といっても,普通のラブストーリーではない。マーダーは,ある時,ムーダンを誘拐し身代金を取ろうとする。ムーダンは,誘拐された自分の身代金が意外に安いことと,マーダーに裏切られたことにショックを受け,蘇州河に身を投げてしまう。「今度会うときは人魚になってるわ」という言葉を残して・・・
警察に捕まったマーダーは,出所後,ムーダンにそっくりのメイメイにナイト・クラブで出会う。しかも,そのメイメイが人魚の格好をしているという,まあ,面白い展開です。メイメイはムーダンに違いないと思ったマーダーは,“僕”とメイメイとの愛の間に,割って入っていこうとするわけですね。果たして,「メイメイ=ムーダン」なのか,というミステリアスな気分でも映画を観れます。
オールド・シャンハイのガーデンブリッジ(その向うには超近代的な東方明珠のタワーが見えます)を重要なポイントにし,上海の裏町人生を描いているのに,「生活感」が出てこない点が少し不満かな。ムーダンを中国語で「牡丹」と書くというのがわかれば,太股に貼った入れ墨シールが「ボタン」であったことに納得します。ムーダン(=メイメイ)を演じたのは,『始皇帝暗殺』の冒頭に出てくる盲目の少女の役をやった子だそうです(ぼくは気が付かなかったけど)。
(2000年中国・ドイツ・日本/監督:ロウ・イエ/出演:周迅(ムーダン+メイメイ)/2002.9.10video)
故郷の香り(暖−NUAN)
北京の役所に勤めているジンハー(井河)は,恩師から仕事のもめごとを調整してほしいと依頼があったため,大学に入学するときに村を出て以来10年ぶりに,故郷である山間の村に戻って来た。村に帰ったジンハーは,偶然,高校時代に恋焦がれていた初恋の女性ヌアン(暖)の変わり果てた姿に出会う。ジンハーは,翌日,ヌアンの家を訪ね,口のきけないヤーバ(香川照之)と結婚しているヌアンの悲しい現実生活を見て,自分のしでかした取り返しの付かない過去を深く反省する。ジンハーは,村を旅立つとき,ヌアンに,「必ず迎えに来る」と言い残していたのだった・・・
フォ・ジェンチイ監督は,『山の郵便配達』のときと同じように,無理して話を盛り上げようとせずに,淡々と現在と過去を交差させながら,今回は少し謎解き風に描いていってます。『山の郵便配達』では息子が親父を背負ったけれど,この映画では,大学の合格を知ったジンハーが恥ずかしがるヌアンを背負うのもおもしろいですね。
原作は「白い犬とブランコ」。映画には白い犬は出てこないけれど,ブランコは重要な役どころをしています。手紙も『山の郵便配達』同様,この映画の重要なアイテムです。村を旅立つジンハーから手紙を書くよう封筒と便箋を渡されたヌアンは,「三回返事を出さなかったら忘れて欲しい。」と言います。手紙は,映画の後半のキーワードかな。
現在の生活ではヌアンの心情が細やかに描かれています。ジンハーが必ず家に訪ねてくると予想し,娘の前でさりげなく身支度を整える様子。夫のヤーバがジンハーからの土産の飴を舐めていたのを,口から取り出してヌアンに舐めさせようとするのをジンハーの目の前だから拒否しようとする様子。昔ジンハーから贈られた想い出の革靴を,何もしらない娘(「ママの新しい靴」と言ってました)が二階から履いて降りてきたのを見て動揺し,あわてて取り上げる様子など・・・ジンハーに会えて嬉しい自分の気持ちを抑え,無理やり今の生活を正当化させようとしているヌアンがかわいそうです。
事故や失恋やラストシーンでヤーバのとった行動など,観客の予想を裏切らずに話を進めながらも,最後には涙ぐませるという,実に映画の作り方のうまい監督である。
(2003年中国/監督:霍建起(フォ・ジェンチイ)/出演:香川照之(ヤーバ)/2005.10.27サロンシネマ)
北京好日(找楽)★★★★★
北京の下町で,京劇に生きがいを求める退職老人たちを描いた映画。湿った映画ではなく,元気がよくて,実に生き生きとしたじいさんたちの話だ。
京劇の劇場の守衛を40年間勤めて退職した韓(ハン)さんは,朝刊の番号付けから役者へのお茶出しや劇場の入り口に店を出す屋台の追い出し,さらには上演時の端役まで勤め,劇団の隅から隅まで気を配る,細かくて厳格で頑固な老人だ。
退職した後は暇を持て余し,元の職場へ出かけては,昔の部下に相変わらず指図をしていたが,これでは皆からうるさがられるのに決まっている。自分が一日でも休めばたちまち会社が困ってしまうのではないかと錯覚している日本のモーレツ管理職と似たようなものか。
そんなわけで,元の職場でも時間を潰せなくなり,街をブラブラしていた韓さんは,知恵遅れの少年・何明(ハーミン)と出会い,公園に連れられて行く。そこでは退職老人たちが楽器を持ち寄り,自己流で京劇を歌っていた。京劇団にいたということで一目置かれた韓さんは,ついつい調子に乗り,長年の劇団勤めで身につけた芸を少しばかり披露して皆から尊敬されてしまう。
世話好きの韓さんは役所を説得して回り,退職老人の京劇練習用のために公民館の一室を借りることに奔走する。そして,老人京劇班の班長になり,その運営や管理の面倒をみるようになり,素人劇団を祭りで京劇の上演をするまでに成長させてしまう。
しかし,祭りのコンクールで落選してからは,楽しむために京劇をする者と,プロ劇団並みの厳しい規則と練習管理を訴える韓さんとの間に次第に亀裂が生じ始め,ある日,韓さんは稽古中に何度も台詞をつかえた董(トン)さんと大喧嘩をして公民館を飛び出してしまう・・・
この映画,韓さんと董さんのほか,女形の役が好きなことから普段の身のこなしまで女らしくなっている喬(チャオ)さん以外は素人を起用したということだ。寧瀛監督はこの次の作品『スケッチ・オブ・Peking』でもそうなのだが,プロでない市井の人々を多く起用して映画の中に北京の日常の風景を取り込むのがうまい。京劇老人たちを撮りながら,北京の下町の雰囲気,風情をよく我々に伝えてくれる。なくしたくない何かを・・・『こころの湯』で有名になった北京の銭湯は,この映画の中にも,少しだけですが,先に登場しています。
(1992年北京映画製作所/監督:寧瀛/出演:黄宗洛(韓さん)/教育TV,2002.4.14renewal)
北京の思い出(城南旧事)
1920年代の後半に台湾から北京に移住した女流作家が自分の少女時代の思い出をつづった小説が原作。映画は少女・英子(インズ)の目に映った光景を淡々と描いていて,郷愁を誘う。
最初に映画を観た時の記憶としては,郷愁を誘う北京の下町の雰囲気と大きな瞳の主演少女がニッコリと微笑むところくらいしか印象に残っておらず, 監督が何を言わんとしているのかがよくわからなった。 今回,感想をリニューアルするに当たり,ビデオを観なおす前に, 先に原作小説(「城南旧事」林海音 著/杉野元子 訳/新潮社刊)を読んでみた。 すると,以前,映画だけを見た際にはわからなかったことがいろいろ見えてきた。
原作を読むと,作者が北京の下町で育った当時の,そこに住んでいた人々の生活の風景や人生模様がとても生き生きと描かれているのがわかる。結論的に言えば,この映画(小説)は,何か主張を訴える部類のものではなく, 1920年代の北京の胡同の様子,さらにはそこに住んでいた人々の日常の生活を懐かしむ, そのこと自体を目的としたものということになるのかな。
原作は6本の短編で構成されているが,映画ではそのうち,@「冬の太陽・幼年時代・駱駝隊」(冬陽・童年・駱駝隊)A「恵安館」(恵安館)B「みんなで海を見に行こう」(我們看海去)C「ロバのころげ回り」(驢打滾児)D 「お父さんの花が散った」(baba的花児落了)をミックスして構成している。
全編にわたり,「旅愁」のメロディーが流れ,「郷愁の感」が増幅させられる。しかし,この曲の中国名は「送別」というらしく, なるほど,物語の内容は「別れ」にまつわるものばかりだ。 Aでは英子にだけ心を開いていた恵安館に住む狂女と,自分が捨て子であるという身の上を英子に打ち明けれるほど仲の良かった女の子ニューアルとの別れ(事故) Bでは草むらで出会った弟思いで気のやさしい泥棒との別れ(逮捕) Cでは貧しい村に子供を残して出稼ぎに来ていた乳母・宋媽との別れ(帰郷)Dでは父との死別等々・・・
また,水屋(井戸から水を汲み売っている),北京の街中をノソノソ歩き回っている荷運びラクダ,胡同を練り歩く行商人など,北京の原風景をわかりやすく再現させられるのは,映画ならではのものだろう。NHKテレビ中国語講座のアシスタントをしていた沈潔(シェンジエ)さんの子供時代の主演作品でもある。
(1982年上海映画製作所/監督:呉貽弓/出演:沈潔,張ミン(狂女),張豊穀(泥棒),鄭振瑤(宋媽)/教育TV「アジア映画劇場」,2004.11.6renewal)
北京の天使(天堂回信)
北京の幼稚園に通うチェンチェン(晨晨)は,両親が仕事で外国に行っているので,おじいちゃんに育てられている。凧上げや将棋をして一緒に遊ぶだけでなく,家事や郵便配達の仕事を手伝ったりして,すっかりおじいちゃんっ子になっている。
そんな時,心臓が悪いおじいちゃんと小学校への入学を控えたチェンチェンの面倒をみるために母親が外国から帰ってきた。チェンチェンは長いこと会っていない気恥ずかしさもあり,母親にすぐにはなじめず,相変わらずおじいちゃんの方を頼りにする。そして,外国帰りの母親が急に食事や生活を洋式に変えたり,大好きなモルモットを捨てるように言ったり,塾や習い事を押し付けるに及んで,母親に対し反抗するようになる。
おじいちゃんは,チェンチェンを甘やかせて育てた自分が一緒にいたのではいつまでたってもチェンチェンは母親になつかないと思い,自ら進んで昔の家に戻ることに決めた・・・
ひとりっ子(小皇帝)問題と出国ブーム(出国熱)問題等,一昔前の中国が抱えていた社会問題をなんで今ごろ取り上げているのかと疑問に思いながら観ていたら,この映画,実は10年前に製作されたものだった。それが,なんで今ごろ日本で再上映されているのか,よくわからない。
原題は『天堂回信』。これを『北京の天使』と訳した邦題はいかがなものか。チェンチェンの利発さと愛らしさに焦点を置いた見方だろうが,死んだおじいちゃんと孫との愛をテーマにした監督の意向(原題直訳で「天国からの手紙」)を無視している。
その題名と冒頭のシーンから映画の結末は当然予想されている。チェンチェンとおじいちゃんの仲の良さを描くことによって監督は何を訴えたかったのだろうか。同じ頃に作られた同種の社会的テーマを扱った作品『ひとりっ子(89)』『さよなら上海(91)』と比べても少し切りこみ不足の気がする。幼稚園児との会話が多いので,言葉が比較的聞き取りやすく中国語の勉強になる点はお薦めだが,その他は・・・
二人が自転車に乗って通りを行き来する姿を,歩道のベンチに腰掛けて黙っていつも温かく見つめていたおじいさんは,『人生は琴の弦のように』で主人公の盲目の旅芸人を演じた劉仲元でした。せっかく最後に出番がやって来たのに琴も弾かず,歌も歌いませんでしたが。
(1992年中国/監督:王君生/出演:肖雄(母),劉仲元/2003.1.28video)
北京物語(鴛鴦楼)
開放政策の進む北京を背景に新婚カップル用アパートに住む6組の夫婦のある日曜日の午後から翌朝までの生活ぶりをオムニバス形式でつづる。
1992年NHKテレビ中国語講座放映作品。
(1987年北京電影学院青年映画製作所/監督:鄭洞天/映像文化L)
べにおしろい(紅粉)[上海語+北京語]
新中国が成立し,娼館が閉鎖されることになり,「喜紅楼」の娼婦・チウ(秋儀)とその妹分・シャオ(小咢),そしてチウの馴染み客だった若旦那・プー(老舗)の3人が,急速に変化する時代の流れの中で翻弄される様を描く。
物語の舞台は,江南の水郷・蘇州(辺りだと思う)。ある朝,チウとシャオは解放軍により,他の娼婦と共に娼館を追い出され強制的に収容所に入れられる。チウは隙を見て収容所を脱走し,プーの元へ身を寄せるが,プーの母と折り合いが悪くなり,やむなくそこを出て尼寺に入る。しかし,チウの子を身篭っていたことが発覚してそこにも居づらくなり,子供を流産した後,寺を出て行く。
一方,シャオは収容所を卒業した後,頼る所がないので,チウに気兼ねしながらプーと結婚する。しかし,新中国に財産を没収され,地主の身分から工場労働者に成り下がっていたプーとの生活は苦しく,その上,子供もできてシャオとプーの間には争いが絶えなくなる。思い悩んだプーは工場の金に手をつけてしまい,死刑の宣告を受ける・・・
主役の三人が三人とも,人に自慢できるような生き方をしているわけではないので,感動の人生物語というわけにはいかないが,江南の,運河が生活の一部になっている落ち着いた街の雰囲気が印象に残る(しかし,汚水の処理はするなよな)。解放軍が出てくるところ以外の会話がすべて上海語というのも特異なところか。ただ,ナレーションに頼っている箇所が意外と多くて,特にチウが尼寺に入るというくだりでは,その理由が十分に伝わって来ないのが残念。
チウを演じる王姫(ワンチー)が腕組みをし,お高くとまっている姿は,テレビドラマの『北京人在紐約(ニューヨークの北京人)』でもお目にかかれたけど,なかなか様になっています。シャオを演じる何賽飛(ホー・サイフェイ)は,『紅夢』『花の影』同様,わがままな女の役をやらせれば,適任ですね。
(1994年北京映画制作所/監督:李少紅/出演:王姫,王志文,何賽飛/2001.12.5video)
ヘブン・アンド・アース(天地英雄)
紀元700年頃の中国。唐王朝の最盛期のシルクロードを舞台に,皇帝に献上する仏教の経典を長安まで運ぶキャラバンと,それを狙う馬賊やトルコ系北方遊牧民族との死闘を描いた中国版西部劇。
戦いのアクションドラマに,日本人の遣唐使・来栖(中井貴一)が重要な役どころで登場する。彼は,25年前に唐に渡り、文武両道を学び,皇帝直属の刺客として仕えていた。このたび,皇帝より念願の帰国許可を与えられるが,その条件として最後の仕事を命じられる。それは,皇帝の命に背いて西域に逃れた元軍人・李を始末することだった。
栗栖は李を探し当てたが,李は,その時ちょうど皇帝への献上品を運ぶキャラバンの護衛をしていたため,朝廷の役人である栗栖は,献上品が長安に着くまで彼との決闘を中断することにする。砂漠を進む一行に,馬賊やトルコ系民族が次々と襲いかかり,助け合って敵に相対し,生死を共にしているうちに,来栖と李の間には,いつしか友情らしきものが芽生えていく・・・
西域の砂漠や渓谷でのロケは,アメリカの西部劇に負けないスケールの大きさを感じる。また,何平監督が10年以上前に作った『双旗鎮刀客』(おそらく,中国で最初のウエスタンだろうと思うが)と比べると,各段の差を感じる。
中井貴一扮する遣唐使が登場することや,護衛の助っ人集めに「七人の侍」の要素を加味している点,さらには,来栖と李が「献上品を運び終えるまで決闘を延期する」とした男の約束など,日本人にも受け入れられやすい。
しかし,中井貴一を途中で死なせるという展開は,意外だった。最後に栗栖と李の決闘のシーンが当然あるものと思っていたから。元軍人・李の罪は,「武器を持たない人を殺せ」という命にそむいて,それを実行しなかったことだった。それを話の伏線と思い,ぼくとしては,キャラバンに同行し李の人間性を理解していた栗栖は,長安で李と闘わざるを得なくなった時,皇帝の命にそむいて,今度は自分が「人を殺さない」という罪を犯す・・・というストーリーを予想していた。
そのほか,個人的には(注意不足もあるのだが),キャラバンがスクリーンの右から左へ向かっているため,最初はシルクロードを西へ移動しているものと錯覚して(そう思い込んで)いた。映画製作としては,東へ向かおうが西へ向かおうが,右から左へ向かうという動きになるのだろうか?
(2003年中国/監督:何平/出演:中井貴一,姜文(李),趙薇(文珠),王学圻(馬賊の首領・安),劉利年(巫)/2004.2.25)