はじめに|概要|ビル今昔|ファサード|構造|地下室|細部|設計者・秋鹿隆一
■概要
背景15mの強い西風が吹きつける1927(昭和2)年12月29日昼、宍道湖に近い灘町の制服工場から出火。またたく間に灘町、天神町、寺町と人家の密集地帯をなめつくし、和多見川の線でようやく消し止めた。被災地は、12800平方メートルで焼失戸数は住家が236戸。ほかに倉庫など100棟を焼いた。復興にさいしては灘町と寺町に2つの土地整理組合ができて路線の新設や拡幅を行ない、北天神町は歩道と車道を区別し近代的な街路のさきがけとなった[*1]。
松江市では1928(昭和3)年から本格的な都市計画行政が始まったばかりであり、この一帯の区画整理事業がはじめての都市整備事業となった。この時代は、1927(昭和2)年の金融恐慌に始まる不況の中ではあったが、一畑電鉄の開通、北松江駅の竣工(1928[昭和3]年)、片倉製糸工場の開設、松江運動場・競馬場の開設、第1回水郷祭の開催(1929[昭和4]年)、定期航空路開設、小泉八雲記念館竣工(1933[昭和8]年)、市公会堂、新大橋の竣工(1934[昭和9]年)など、松江が近代都市として骨格を形成していく時期でもあった。
*1――松江市誌編纂委員会編『松江市誌』、1989、pp。226-227。
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