15「た行」で始まる作品


台北に舞う雪(台北飄雪)
『山の郵便配達』のフォ・ジェンチイ監督が,台湾北部のローカル線の駅がある小さな町「菁桐(チントン)」を舞台に描くラブストーリー。幼い頃に家を出た母親が帰ってくるのを待ちながら,町で雑用を引き受けて暮らしている青年モウと,新人歌手として売り出し中に声が出なくなり,台北から逃げ出してきたメイの純愛物語。
町の食堂で働きながら,モウを始めとする田舎の人々の優しさに触れることにより,メイは次第に声と元気が戻ってくる。やがて,自分を探し始めたマネージャーたちの動きも知り,山奥の小さな町の生活と都会の華やかな生活との二者択一をせまられる・・・
題名は『台北に舞う雪』。雪が降らない台湾に雪が降るのか?なぜ,こんな題名を付けたのか,それは映画を見ればわかるが,幼い頃に別れた母親が言った「雪が降るころに帰ってくる」という言葉を信じて,モウは町でずっと待ち続けているわけだ。
話の展開には少し首をかしげたくなるところも無きにしも非ずだが,それはまあいい。『山の郵便配達』でもそうだったが,この監督は自然描写がとても上手なのだ。この映画では落ち着いた町並み風景をうまく撮っていて,それは見ていて眠たくなるほど心地よい。モウの心の美しさや優しさもとても感じがいい。さわやかな映画である。
(2009年中国・日本・香港・台湾/監督:フォ・ジェンチイ/出演:チェン・ボーリン,トン・ヤオ/2010.5.26サロンシネマ)
太陽の少年(陽光燦爛的日子)
70年代,文化大革命の真っ最中の北京の下町(胡同)が舞台だが,これまでの文革映画とはひと味違った作品。文革の悲惨さや暗さは出てこず,それとは別世界を作っている少年たちの青春を描いたドラマ。
当時の街には,権力闘争に明け暮れる大人や下放した学生の姿はなく,街は子どもたちのユートピアと化していた。授業をさぼり,たばこを吸い,ナンパをする不良小年たちの中にシャオチュン(小軍)もいた。彼は,合い鍵を作るのが得意で,ある時忍び込んだ家で部屋に飾ってあった女性の写真に心惹かれる。やがて実際にその女性・ミーラン(米蘭)に会い恋をする・・・
年上の女性にあこがれ,性に目覚めるというストーリー自体は別にどうってことないんだけど,映像が詩情にあふれ,とても美しい。原題のとおり,画面いっぱいに太陽が降り注ぎ,映画全体が光り輝いている印象が強く残る。感覚的にいい感じのする映画である。
印象に残るシーンもいくつかあった。やはり一番はミーランが髪を洗うのをシャオチュンがやかんのお湯をかけて手伝うシーンかな。主人公のシャオチュンは姜文にとてもよく似ている。ミーランを演じた寧静は,『哀戀花火』の時はこんなにポチャッとしてたっけ?
この映画,姜文を熱愛していた劉暁慶(芙蓉鎮で共演)がプロデュースしたもので,彼女の自叙伝によると,ヒロインは彼女をモデルに姜文が脚本を書き上げたが,役が若すぎるので劉暁慶では撮らなかったとのことである。
(1994年香港・中国/監督:姜文/出演:夏雨,寧静,斯琴高娃,王学圻/2000.6.21video)
たまゆらの女(周漁的火車)
中国・雲南省の陶磁器の染め付け工場で働くチョウユイ(周漁)は,ダンスパーティーで知り合った詩人の男・チェン・チン(陳清)から一篇の詩を送られる。その詩に心奪われたチョウユイは,四川省にあるチェン・チンの家を訪ねる。その日以降,片道10時間というはるかな道のりを彼に会うために週2回汽車に乗る,チョウユイの生活が始まる・・・
遠距離恋愛がテーマな訳ではない。もう一人,同郷に,チョウユイに興味をもつ無骨な男・獣医のチャン・チアン(張強)が登場する。夢見る詩人と無骨な獣医の,対照的な二人の男に愛された女性を演じるのがコン・リーで,コン・リーが主演するにしては珍しい「現代中国を舞台にしたラブ・ストーリー」というのが,「売り」だろうか。
そのコン・リーが,シュウ(秀)とチョウユイという,どちらもチェン・チンに関係する女性として一人二役で登場するが,一回見ただけではどういう関係かわかりにくい。また,コン・リーと言えば,「大地に根ざしたたくましい女」というイメージが定着しているが,この映画には彼女のきれいな足がたびたび登場します。意外に細くてスラッとしているのに驚きました。
邦題の『たまゆらの女』というのが,意味がわからない。原題は『周漁的火車(周漁の汽車)』。これでもか,というくらい出てくる,半分主人公になっている汽車を題名にした原題の方が,まだましか・・。
映画の舞台となる,雲南省の街・三明も四川省の都市・重陽も,どちらも架空の地名です。重陽が重慶だというのは,川やケーブルカーや坂を見ればすぐわかります。一方,三明については,映像を観ただけではどこの街か判別できませんでした。
このため,チョウユイが週2回乗る,両都市を結ぶ鉄道が何線なのか断言できませんが,険しい山々の中に,人民解放軍が幾多のトンネルと橋を造って完成させた「成昆鉄道」かなあ,と思いながら映画を観てました。それと,チェン・チンの詩集を出してもらうために接待する場面で,両側に家が立ち並ぶ狭い通路に延々とテーブルを連ねて食事をしている場面がありましたが,あれは,確かハニ族の「長街宴」というお祭りだと思います。
チャン・チアンを演じていたのは,『初恋のきた道』でルオ先生の息子を演じた孫紅雷です。
(2003年中国/監督:孫周/出演:コン・リー,レオン・カーファイ(陳清),孫紅雷(張強)/2004.7.22DVD)
小さな中国のお針子(Balzac et la petite tailleuse chinoise)
文革の嵐が吹き荒れていた1971年,二人のインテリ青年(マーとルオ)が,下放政策により四川省の山奥の村に送られ再教育を受けることになった。時計も見たことがなく,文字も読めない者ばかりの未開の村で毎日過酷な肉体労働に従事していたマーとルオの唯一の楽しみは,仕立て屋の老人の美しい孫娘(お針子)とこっそり過ごす自由な時間だった。教育を受けていないお針子のために,ルオが禁止されていた西洋の小説を読んで聞かせているうちに,お針子にはだんだん自立心が芽生えていく・・・
この映画は,『シュウシュウの季節』や謝晋監督の一連の作品のように,文革の悲劇(下放生活の辛さ)を真正面から描いたものではない。一足先に下放されて村に来ていた「メガネ」から盗んだバルザックの小説をマーが貪るように読むシーンやマーが毛皮の裏地に書き写していた西洋小説の一節を,産婦人科の医師が感動しながら読むシーンなどで,文革中に行われた毛沢東の西洋文明批判の政策を風刺してはいるが,主人公自身,或いはその周辺の人々は,これといった悲劇には見舞われない。雄大で神秘的な深山幽谷の自然の中で,マーもルオも村人ものんびりと暮らし,自立心に芽生えたお針子が村を去るというシーンでも,別に悲しくならない。
青春時代に下放された村を再訪するというのは『青春祭』のパターンと似ている。「青春祭」では,主人公が再訪した時には,下放された村が山津波でなくなっていたが,それとも少し似ている。しかし,この映画は,「青春祭」のように感傷的な映画ではない。監督の自伝的小説が原作ということだが,映画を見る限り,文革中のつらい(一部楽しい)想い出も,今ではよき想い出になったという青春回顧的映画のように受け取れる。
同じく文革中に下放された経験を持つ陳凱歌は『子供たちの王様』で,雲南省の山奥の未開部落で代用教員をする主人公の教育方法を通して,文字を学ぶことが本当に意味があるのだろうかと問いかけた。それに比べると,この映画はフランスの小説がお針子の人生を変えたという文化人好みの内容で,西洋賛歌のし過ぎかな。
また,登場人物の前作でのイメージが強すぎて,マーが荷物を背負って山の石段を登る映画の冒頭のシーンや椅子に座ったお針子を背負って歩くシーンなど『山の郵便配達』の続きかと思い,川の中でルオとお針子が潜って戯れるシーンでは『ふたりの人魚』の寓話性を連想させ,仕立て屋のおじいさん(ツォン・チーチュン)や村長とのやり取りには『鬼が来た』同様のユーモアがあり,全体としてこれらがミックスされた癒し系の映画に仕上がっている。この映画を恋愛映画や少女の成長物語と解する向きもあるが,ぼくの見方は,やはり肩の凝らない「文革映画」といったところだろうか・・・
途中,いきなり時間が現代に飛ぶところがわかりにくかったし,お針子が村を去る決心をしたことに至る心の動きももうひとつよく伝わってきませんでした。舞台設定は三峡ダムの建設により水没する四川省の山奥の村ということですが,実際のロケは湖南省・武陵源の張家界で行われています。世界遺産の絶景がすばらしいですね。
(2002年フランス/監督:戴思傑(ダイ・シージエ)/出演:周迅(お針子),劉Y(マー),叢志軍,王宏偉(メガネ),肖雄(メガネの母)/2003.5.10サロンシネマ)
チベットの女/イシの生涯
オールチベットロケ。チベット人俳優・スタッフを使い,チベット語で製作された「本物のチベット映画」という触れ込みだった。それはある意味で正しい。どこまでも高く青い空。透き通った蒼い湖。そして草木の生えない荒涼とした山々。最初のシーンを見ただけで8年前に旅したチベットを懐かしく思い起こした。
自然の風景ばかりか,ポタラ宮にジョカン寺(大昭寺)それに繁華街のパルコル(八角街)なども何度となく出てくるし,一般庶民の家庭での食事の様子や信仰の様子もこまめに描かれていて,日本に居ながらにしてチベットの自然と文化と人々の生活がよくわかるものになっている。
中国旅行ファンならそれだけでもいいが,中国映画ファンなら映画の内容も気になるところだ。映画は,チベットの解放前に農奴の娘として生まれたイシが,身分の異なる三人の男たちと織りなす愛を50年に渡って描く大河ドラマだ。
僧侶サムチェとの幼心の初恋,夫ギャツォとの略奪婚,荘園の若旦那クンサンとの愛人関係。これらが,雄大で美しい,そして時には厳しいチベットの自然をバックに,イシが歌う恋歌のメロディーに乗せて詩情豊かに語られていく。物語は,ラサに夫と二人で住んでいる老女イシが,北京から訪ねて来た孫娘に昔のことを回想して語る形で進む。恋人と別れたばかりの孫娘(この描き方が少し甘い)は,悩み,苦しんだ長い生涯の末にやっと本当に愛していた人がわかったイシの姿に感動し,人を愛することはどういうことかを知る・・・
撮影許可のからみもあってか,政治的テーマは避け,チベット動乱の原因についてもさらりと流している。共産党も人民解放軍もダライラマ14世も出てこない。ストーリーの構成も,農奴解放のおかげで幸せになった現在があるというたてりにし,当局好みにしているが,監督としては,少々妥協してでも,なんとか現在のチベットをカメラに収めておきかったのではないだろうか。チベット好き人間にとっては,なかなか見ることのできないチベット人の普段の暮らしの一端を垣間見ることができるだけでも,価値があると思います。
(2000年中国/監督:謝飛/2003.4.17横川シネマ)
血祭りの朝(血色清晨)
コロンビアの作家ガルシア・マルケスの「予告された殺人の記録」を,李少紅が舞台を中国の農村に置き換えて映画化したもの。といっても,実はぼくは原作を読んでいない。しかし,映画を観ると,なるほど 「予告された殺人の記録」というのは,映画の内容を端的に表しているというのがわかる。村の小学校教師・明光(ミングアン)が,村人たち衆人環視の中で李平娃と李狗娃の兄弟に殺されるというストーリー。
明光は永芳(ヨンファン)と内縁関係にあったが,李紅杏(リー・ホンシン)はこの二人と気が合い,毎日夜遅くまで3人で語り合う仲だった。そんな時,紅杏は成金の強国(チアングオ)に見初められ,強国は金の力に物を言わせ,紅杏の兄で36になっても嫁がもらえない平娃に障害者である自分の姉を嫁がせ,自分は紅杏を娶るという,一種の交換結婚(換親互嫁)を成立させる。
しかし,新婚初夜に紅杏が処女でなかったことを知った強国は激怒し,紅杏は実家に戻され平娃の結婚も取り消される。紅杏の相手は明光に間違いないと思いこんだ平娃は弟の狗娃を誘い明光の殺害を計画する。この計画はたちまち村中に広がるが,なぜか当の明光本人にだけは伝わらなかった。殺される予定の明光だけがその計画を知らないまま,事件が起こってしまう。
問題なのは,殺人の計画を知った村人たちが,誰も積極的にはそれを止めようとはしないことだ。誰かが止めるだろう,或いは明光もたぶんそのことを知っているはずだから自分でなんとかするだろう,くらいの感覚でしかこの殺人計画を受け止めていない。もっと言えばこの兄弟が明光を殺そうとするのにはそれなりの理由があるのだから,それを他のものが阻止すべきではない,それが成就するかどうかは天命任せだといったふうにさえ見て取れる。
ラジオからアメリカがモスクワ五輪をボイコットするニュースが流れていることからして,そんなに古い時代の話でもないのだろうが,この村にはまだ女性をモノとして売り買いすることが平然と行われるような封建的な因習が残っていて,人の命よりも男の面子の方が大事で,それを潰されたものは復讐することが当たり前とでも言いたげだ。男の名誉心のみが絶対で,女の人権は無視されていた村の物語と割り切って見ても違和感は残る。しかも,紅杏を犯したのが明光だというはっきりした理由があるわけでもないのだ・・・
殺人シーンとは直接関係ないですが,弟の強国のために気の進まない結婚をさせられながらも,右手が不自由な自分にやさしくしてくれた平娃に好意を持った強国の姉が,強国の突然の指示でわけもわからないまま無理やり家に連れ戻されそうになり,必死に抵抗する姿がかわいそうでした。紅杏を演じていた孔琳(コン・リン)は『紅夢』で第二婦人の召使の役をしていましたね。
(1990年北京映画製作所/監督:李少紅/出演:孔琳/2002.5.14VCD)
中国の植物学者の娘たち(植物園)
中国生まれでフランスに長く住んでいるダイ・シージエ監督が『小さな中国のお針子』に続いて作った,中国を舞台にした映画。
中国南部の架空の町にある湖の中の植物園が舞台。この世間から隔絶された植物園で,厳格な大学教授の父と暮らす女性・アンと実習生として植物園にやって来た混血の女性・ミンの禁断の愛を描く。
前作は文革時代を背景にしたものだったが,当局批判がなかったため中国国内での撮影許可が下りた。しかし,本作はテーマが「同性愛」であったためか,国内での撮影許可は下りず,ベトナムで撮影している。雲南省,或いは桂林あたりに良く似た美しい風景や二人が愛をはぐくむ植物園での幻想的な映像は,まあ,いいが,映画の内容はどうだろうか?
監督は,前作が「文革」を正面から描いたものでなかったように,本作も「同性愛」を正面から描いたものと見てほしくないようだが,ならば,本当に描きたかったものは何か。それが,よくわからない作品だ。
邦題のつけ方も気に入らない。『小さな中国のお針子』の次は,『中国の植物学者の娘たち』か。原題は,ただの『植物園』である。関連した作品でもないのに,同じ監督だからというだけで,『中国の・・・』とあわせる必要はないのではないか。(これは監督には関係ないけれど)
(2005年カナダ・フランス合作/監督:ダイ・シージエ/出演:ミレーヌ・ジャンパノワ,リー・シャオラン/2008.1.4シネツイン)
春桃(チュンタオ)
1930年代の北京,春桃は毎日大きなカゴを背負って「くずはないかね。マッチと交換するよ」と叫びながら路地裏を歩き回ってくず拾いに精を出していた。 春桃の家には,結婚はしていないが,3年来同居している劉向高がいて,彼は古紙の中から掘り出し物を見つけては愛好家に売りつけて生計を立てていた。
ある日,春桃は,結婚式の日に匪賊に襲われて以来行方不明になっていた夫・李茂に街で偶然に出会う。彼は日本との戦争で両足を失い乞食をしていた。春桃は彼を人力車に乗せて家に連れて帰る。 劉向高を愛し,彼と別れたくない春桃だが,変わり果てた夫(しかも春桃との結婚許可証を大事に持っている)を見捨てるわけにもいかず,3人でいっしょに暮らそうと提案する。しかし,一つ屋根の下に,一人の女と二人の男という生活がうまくいくはずがなく,いたたまれなくなった男たちは,互いに相手を気遣い,それぞれ,ある決断をする・・・
『芙蓉鎮』に続く劉暁慶と姜文コンビの映画の第二作目。 監督は,当時71才の凌子風で,30年代の北京の郷愁を誘う叙情的な作品に仕上げているが,映画の作り方自体も,音響効果で盛り上げようとするなど旧式なところはどうかな? 同じ頃の年代を扱った呉貽弓監督の『北京の思い出』もやはりこんな感じの映画だった。この年代を描くとどれも同じような感じになるのかな?
くず拾いの時の春桃のかけ声が,歌の調子のようでなかなか印象的だ。 それと,春桃が竹竿の先に付いている鉤で地面に落ちている紙くずを引っ掛けて,背中に背負ったカゴの中に放り投げるところが実にうまかった。だいぶ練習したのかな?また,春桃が仕事のあと身体を洗うシーンや劉向高にマッサージをしてもらうシーンで必要以上に肌を見せたり,彼女が庭のトイレで用を足すシーンを演出したりしているのは,劉暁慶ファンに対する過剰サービスだな。(変なシーンだと思うボクの方が異常?)
(1988年遼寧映画製作所・香港/監督:凌子風/出演:劉暁慶,姜文/2000.10.10video)
長江に生きる(秉愛)
国家的プロジェクトである三峡ダムの建設。政府からの立ち退き命令に従うと,これまでの平穏な日々が続けられなくなるため,頑固に抵抗する農村女性・秉愛(ビンアイ)を7年間カメラで追ったドキュメンタリー映画。
中国女性は強いなあ。ビンアイにはコン・リーのような大地に根ざした力強さがある。風貌や体型は,強烈な個性のスーチン・ガウアーに似ている。
また,「病弱な夫と暮らす働き者の妻」というパターンは,『麻花(マーホア)売りの女』など,中国映画でよく見かけるが,映画の世界ではなく,現実にも,こういった夫婦のパターンは存在しているのだなあ,と思った。
家族とのつつましい生活を必死で守ろうとする,ビン・アイのひたむきさにも感心するが,映画を観て,もっと感心したのは,監督の辛抱強さだ。随分,足しげくかよい,ビン・アイと共感することができたので,こんな自然な感じのフィルムを撮るのに成功したのだろう。
ジャ・ジャンクー監督の『長江哀歌』とは,また違った,ちいさな一家の記録映画だが,こういうフィルムを残すことも大事だと思う。
(2007年中国/監督:フォン・イェン/2009.8.10横川シネマ)
再見(ツァイツェン)〜また逢う日まで(我的兄弟姐妹)
やられました。今まで,映画を見て,涙腺が潤むとか,涙ぐむとか,したことはあったんですが,涙がこぼれてきたというのは,この映画が初めてです。必ず泣ける映画だということは事前に聞かされていたんですが,それでも,なんか,自分の意思とは関係なく涙が出てきた感じです。
文化大革命の頃,7歳で国外に出ていたチー・スーティエン(斉思甜)が,若き女性指揮者として20年ぶりに祖国・中国に戻り演奏会を開くことになった。彼女は,この機会に,長い間離れ離れになっていて消息のわからない兄のチー・イクー(斉憶苦),弟のチー・ティエン(斉天),妹のチー・ミィアオ(斉妙)を探すつもりだ。
20年前,4人の兄弟姉妹は,東北の小さな町で小学校の音楽教師をしている父と貧しい家計を切り盛りしているやさしい母と一緒に幸せに暮らしていた。そこに突然悲劇が襲ってくる。ある雪の降る夜,突然,事故で両親が死んでしまうのだ。自分で生活することのできない4人の子供たちは,別々に分かれて,他所の家に引き取ってもらうことになる。長男のイクーが,幼い弟や妹を連れて,引き取ってくれる家を探し歩き,一人ずつ順に預けていくのだが,仲の良かった兄弟姉妹が次々に引き裂かれていくシーンは,とても切ないです。いくら生きるためとはいえ,やむを得ず妹たちを預けて回らなければならない,イクーの辛くて悲しい気持ちも痛いほどよくわかります。
映画の作り方としては,現在のスーティエンが,子供のころに別れた兄弟姉妹を探して再会するというストーリーに,過去の子供時代のエピソードが回想形式で挿入されるという作りになっています。回想シーンはよかったのですが,現在の話が少しイマイチかなという気がしました。離散した4人が簡単に再会できすぎた気もするし,イクーはあんなに警察から逃げ回らなくてもいいとも思うし,コンサート会場もなんかみすぼらしい。おまけにプロのコンサートがあんなに簡単に途中で中断されていいんだろうか・・・などなど。
でも,現在のシーンもラストは良かったです。ついに兄弟姉妹4人が再会を果たしたシーンでは,それまで悲しい別れた方をした子供時代を見てきている観客としては,感情移入してしまい,泣きたいわけでもないのに,また涙が出てきました。
ただ,映画全体としてみた場合には,陳凱歌の『北京ヴァイオリン』の方が,完成度が高かったと思います。『北京・・』は,見終わった後に,「あー,よかったなあ」という感動というか余韻がありました。この映画は,映画を見ている最中には涙が出てくるんだけど,見終わった後の感動が少し乏しかったような気がします。
スーティエンの役は,香港の人気女優で歌手でもあるジジ・リョン(梁詠h)です。彼女は今年度のNHKテレビ中国語会話のテーマ主題歌も歌っていますね。
(2001年中国/監督:兪鐘/出演:ジジ・リョン,姜武(イクー),夏雨(チー・ティエン),崔健(父)/2004.2.14サロンシネマ)
追憶の上海(紅色恋人)[英語+中国語]
1936年,国民党と共産党が激しい内戦を繰り広げていた頃の上海(第二次国共合作のきっかけとなる西安事変が起こったのが同年12月)。租界の中では,中国人の苦しみに少しも気付かない西洋人たちが毎夜ダンスパーティーを開き別世界を作っていた。
そのパーティーでいつも注目を集めていたアメリカ人外科医・ペインの部屋に,ある夜,夫が重症なので診察に来て欲しいと,美しい女性・秋秋(チウチウ)が訪ねてきた。秋秋に連れて行かれた部屋でペインが見たのは,銃創と手榴弾で全身に傷を負い,体の中にはまだ弾丸が残っている可能性があると思われるような重病人・ジンであった。ジンは革命の闘士(共産党幹部)で,長征のときに受けた傷の治療をするために秋秋と夫婦を装って上海に潜入していた・・・
香港映画によくあるパターンのラブストーリーだろうという先入観を持って映画を見ていたら随分違っていた。ジンと秋秋が愛を語り合うシーンは最後の方になるまでない。むしろ,葉纓(イエ・イン)監督の前作『レッド・チェリー』のオールド・シャンハイ版といった感じの悲恋・悲劇映画と言った方がいいだろう。身体の中に残る弾丸のために発作を繰り返す革命家と彼に献身的に尽くす女革命家。秘密警察から執拗に追われながら,やがて明らかになるそれぞれの過去,最後に真実の愛に目覚める二人,そして訪れる永遠の別れをアメリカ人・ペインの目を通して描いている。
『レッド・・・』と同じように,映像が悲しく美しい。中国語があまり使われていないところも『レッド・・・』と同じだ。いくら語り部がアメリカ人だからといっても,もう少し中国人どうしの会話も入れてくれないないものかな。中国語は,ジンが演説をするシーンと発作を起こしたジンに秋秋があの「太陽出来了・・・」という詩を読むときくらいだもの。
ラストの上海解放のシーンの異常な長さも気になるところ。ペインが祝賀パレードの中にジンと秋秋の幻影を見るシーンはいいとしても,監督は,アメリカ人の目から見た中国革命賛歌を描きたかったわけでもあるまいに・・・。革命より愛に揺れた党員を描いた視点は面白い。映像的にもきれいで悲恋もよく描けているが,監督が一番訴えたかったのは何かというところがよくわからない。『一人と八人』で正義感あふれる指導員を演じた陶沢如(タオ・ツァオルオ)が,共産党を裏切り秘密警察の幹部になった皓明(ハオミン)を演じ,存在感を出しています。
(1998年中国/監督:葉纓(イエ・イン)/俳優:レスリー・チャン(張国栄),陶沢如/2001.7.14video)
テラコッタ・ウォリア〜秦俑(秦俑)
秦の始皇帝の側近が罪を犯し俑(埴輪のようなもの)にされてしまうが,その直前に愛する女性から飲まされた不老不死の薬のおかげで死なずにすみ,俑のまま生き続け,3000年後,生まれ変わっていたその女性に再会するという内容のSF・歴史・恋愛・冒険活劇(とても盛り沢山)。
話は,3つの時代に分かれる。最初は,紀元前3世紀の秦の始皇帝の時代。始皇帝がまだ生存中に自分の陵墓を建設させていた頃。始皇帝のために不老不死の薬を求めて蓬莱(ほうらい)の国に行く徐福(じょふく)と500人の乙女を監督する役目に,陵墓建設の現場監督から功あって始皇帝の側近に抜てきされた蒙天放(ティエンファン)が命ぜられた。薬を求める旅の道中,天放は引率する500人の乙女のうちの一人・冬児(トンアル)と互いに惹かれあい,ついに結ばれてしまう。罰として冬児は火刑となり天放は俑にされることになるが,冬児は自分が火に飛び込む直前に,密かに手に入れていた不老不死の薬を口移しで天放に飲ませる。その後,天放は身体中に土を塗られて生きながら俑となり,始皇帝の墓をずっと守り続けていた・・・
陵墓建設の人海戦術のシーンや張芸謀とコン・リーのロマンチックシーンもあり,ここまで見ただけなら,この映画は歴史ロマンの作品かと思うだろう。
しかし,時代が1930年代(中華民国)に飛ぶと,映画は急にコメディータッチに変わる。俑のまま時を過ごし,3000年の眠りから覚めて人間に戻った天放は,始皇帝の陵墓の近くで映画の撮影をしていた売れない女優・朱莉莉(冬児の生まれ変わり)に会う。朱は昔のことを覚えていないが,天放は朱に冬児の面影を抱き一途に慕い続け,映画撮影隊に名を借りた陵墓盗掘団から命を狙われる朱を必死で守ろうとする・・・
画面には,アクションシーンや格闘シーンが所狭しと展開する。3000年をタイムスリップした天放の病院でのおとぼけシーンも見どころ。名監督の張芸謀よ,そこまでするかと感心する。
さらにもうひとつ観客サービスが。撮影隊の監督を演じているのが本物の呉天明監督(『古井戸』とかを撮った監督)だそうです。(ぼくは顔を初めて知りましたが)とにかく観客へのサービス精神が旺盛な映画だ。
そして,最後に時代は現代へ移り,1990年の観光地としての西安・兵馬俑坑。兵馬俑の修復作業をしていた天放の前に,日本人観光客に生まれ変わった冬児がやって来る(着物を着ているのが何か少しヘンだけど)。冬児にもう一度会えた天放の放心した,しかしうれしそうな顔がとても印象的だ。
(1990年西安映画製作所・香港/監督:程小東/出演:張芸謀,コン・リー,呉天明/2000.11.8video)
桃源鎮
四川省の山合いの平穏な村・桃源鎮で豆腐作りをする金(ジン)士貴は,処世のため村の有力者である村長のところへいつも豆腐を献上していた。ある日,村長と折り合いが悪かったため鍛冶屋の営業停止処分を受け,村を離れていた海(ハイ)が,突然,村に戻ってきた。ハイは,村へ帰るや否や,罰金未納のまま鍛冶屋の営業を再開したばかりか,村長が汚職のため町で会議の途中に拘留されたという噂を村中に触れ回った。
村長に取り入ることばかり考えていた臆病者のジンは,それを聞いて動揺し,村のご隠居のところへ相談に行き,今後は村長の敵だったハイのご機嫌も取るようにする。しかし,そのハイが誣告罪で逮捕されると,今度は一転して村長の妻で市場管理主任の馬(マー)に取り入ろうとする・・・
時代設定をはっきり示していないが,「市場経済」という言葉が出てくるし,川劇の上演も認められているので,文革後であることは間違いない。主人公が豆腐屋であるところや,役人が権力をカサに政敵を落とし入れようとたくらむところやその権力者に取り入ろうとする者がいる構図といい,『芙蓉鎮』を意識して作ったものだろう。
しかし,『芙蓉鎮』が文革の嵐の中を耐え抜いた庶民の感動の物語だったのに比べ,この映画の主人公には正義感がない。人はいいのだが,優柔不断で臆病な風見鶏で,とても同情できない。商売敵の王豆腐の小娘を村から追い出してもらうためや,ハイの広い店に自分の仕事場を移させてもらうためには,マー主任から持ちかけられた収賄隠しの偽装工作にも協力したりするなど,映画を見ている者は,一体,誰を応援すべきかわからなくなる。
誰が正しく,誰が悪いのかは,さほど重要ではないのかもしれない。社会の片隅に生きる弱い立場の人間は,正義感だけでは生きていけないということか。そういう社会構造自体が問題なのだろう。ラストでは,県の工作組による村長汚職事件の調査が終わった後,天秤棒に豆腐を担いで売りに歩く,いつもと変わらぬハイの姿が映し出される。権力に固執しない人間は,ある意味ではたくましいのだ。
(1996年峨眉映画制作所/監督:熊郁/2002.2.22TV)